出エジプト記3:7-12;ヨハネによる福音書13:12-20
燃える柴の間から「モーセよ、モーセよ」と呼び出し、イスラエルの民を奴隷の家 エジプトから救い出すために神はモーセを遣わされます。モーセの召命と派遣を告げ る神は、「わたしは下って行く」、「わたしは必ずあなたと共にいる」と、一人称で ご自分の決意を語っておられるのに目を瞠らせられます。 「神が下って行く」という表現は他ではあまりみられない表現です。エジプトにい るイスラエルの民の苦しみを見、追い使うものの故に叫ぶ彼らの叫びを聞かれて、つ いに「わたしは下って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、乳と蜜の流れる地 に導き上がる」と言われるのです。神が見、また聞かれ、知られるのは、世界の民の 一般的な苦難や悩みではありません。生老病死に苦しむ人間の様ではありません。今、 ここで、具体的に苦しみ叫んでいる人についてであり、その結果が「わたしは下って 行く」なのです。現代の世界を覆う戦争や災害や病や死、それぞれのところで「神は どこにおられるのか」と深いふちからのつぶやきと叫びが上がっています。暗く重い 沈黙だけが支配するのが常であるような世界に、「わたしは下って行く、わたしは救 い出す、わたしは導き上る」と語りだされます。これが出エジプトの基調音としてこ れからずっと響いているだけでなく、これが、旧約のみならず、主イエス・キリスト の受肉とあがないの死によって与えられる新約の福音を貫く神の決意でもあります。 神のこのような決意の下で、「モーセよ、モーセよ」と呼び出しがありました。こ れに対して、「わたしは何者なのでしょう」というモーセの問いがあり、それに対し て、「わたしは必ずあなたと共にいる」という答えがあります。この対話の中に、神 の御用のために生きるすべての人を包み込む最も根源的なことが語られているのに気 づきます。「わたしは何者なのですか」と問うモーセの問いは、使命の大きさや自分 の能力、立場をある程度はかり知ることができるほどに成熟した人から出る当然の問 いでしょう。若い時代の挫折の経験、現在の生活の状況、・・・呼び出しに応えるに はあまりにもふさわしくないと躊躇するモーセがいます。しかし、神の答えは、わた したちの中にある何らかのふさわしさを根拠にしてご用のために呼び出すのではない ことを明らかにしています。「わたしと共にいる。」これが神の呼び出しのしるしで あり理由です。これは、モーセに寄り添って神が共にいるということではありません。 降って来られ救い出し、導き上る神がおられ、その神がおられるところにモーセを共 におらせるということです。