出エジプト記3:13-15;ルカによる福音書22:24-34
モーセの召命物語のなかでハイライトは、「神の名を何と告げるべきか」との問い に「わたしはある、わたしはある」と言うものだ、と神が答えられるところです。こ の不思議な対話は何を意味しているのでしょうか。まず、モーセが神の名を問うたの はどういうことなのでしょう。存在しているものみな名前を持っています。名前は確 かに大切です。それによってその存在全体があらわされ、名前によって他の存在と関 わりを持つようになるからです。神は「モーセよ、モーセよ」と名を呼んで、他なら ぬモーセをイスラエルの解放者として遣わされます。しかし、人間が神の名前を知り たいと考えていることは、極めて危険な思想ではないでしょうか。神に名をつけて、 人間の思いに合わせて神を操ることなどできないからです。しかし、モーセは、イス ラエルの民のところに遣わされていくに当たって、神の名を何と伝えるべきかを真剣 に問うたのです。モーセには「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、あなた方 の父祖の神」と言う名前だけでは不十分でした。それは、単に神の名を知ることを求 めているのではありません。新しい神との関係が何であるかを確認しているのです。 神を生きた現実として、人格的な存在として向かい合うことを求めているのです。驚 くべきことに、神はこのモーセの求めに応えておられます。古い答えを繰り返すので はありません。モーセと人格的に向かい合うことを喜んでおられるのです。 モーセに与えられた新しい生きた神の名は、「わたしはある、わたしはあるという 者だ。・・・わたしはあるという方が、わたしをあなたがたに遣わされたと告げよ」 ということでした。これは、「わたしは、わたしだ」と拒絶的に答えたに過ぎないと 解釈することもできなくはありませんが、むしろ、積極的に、聖書に証された神の本 質をもっとも深くあらわしている名前ととるべきでしょう。すべての存在するものの 根源にあるかた、というだけでなく、今ここに生きて働く方として、わたしに呼びか け、わたしと共にあり、神の「わたしはある」のなかにわたしの存在も、そしてすべ ての存在も入れてくださる方です。 わたしたちは、神の名を知っています。御子、主イエス・キリストの名によって、 乳である神、聖霊である神を一体の神として呼ぶことを知っているからです。この神 は、「わたしはある、わたしはあるというものだ」とご自身の名を告げ知らせてくだ さることによって、またその神の名において働かれた歴史をとおして、イエス・キリ ストの神の真実を明らかに知ることができます。