11月28日
2004年11月28日

「さあ、行きなさい」

出エジプト記3:16-22;ルカによる福音書1:5-25


 アドヴェントの時、それは、希望を持って祈りつつ待つことを学ぶ時、また、主の

呼び出しに向かって歩みだす時です。

 柴の中からモーセを呼び出し語りかける主は、「わたしは、ある」というご自分の

名を教えられた後、「さあ、行きなさい」と立ち上がるようにモーセを促します。し

かし、主はただ高みから鼓舞するだけでなく、どのように立ち上がり、解放の運動を

進めてゆくべきか、その戦略と作戦の計画も告げています。極めて現実的、また具体

的で周到な知恵がそこには隠されています。低く降る神は人間の現実を知っておられ

ます。運動計画は二段階、イスラエルの長老たちを集めて、まずイスラエルの民を出

エジプトを願い行動することに向かって結集すること、そして、エジプト王ファラオ

と対決して出エジプトを実現すること、その各段階がどれほど困難な大きな課題であ

るかは、想像がつきます。まず第一段階では、長老たちを集めて、主がモーセに現れ

てエジプトでイスラエルの人々が受けている仕打ちをつぶさに見て、乳と蜜の流れる

地カナンに導き上ると主が決意されたと告げるように命じます。そこでは、そのこと

だけを語れ、と告げられていることに深い意義があると見るべきでしょう。モーセが

何者であるか、神の名が何であるかについて語る必要がない、ただ神の決意だけを宣

べ伝えよ、これが主の作戦指令です。また、第二段階では、かつてモーセが試みたゲ

リラ作戦ではなく、イスラエルの長老たちと共にファラオと直接対面して、イスラエ

ルの神が現れて、荒れ野を三日の道のりのところまで行かせ、犠牲をささげるように

いわれたと言え、ということです。エジプトでの苦役の不満やカナンの地に戻りたい

と言うことは述べる必要がない、と。苦役からの解放という政治プログラムに、神に

犠牲をささげるという宗教的な口実を使うように、教えられるのです。なるほど、そ

うすれば、ファラオはその要求に答えなければ、イスラエルの民でなく神と対決する

ことになり、それによってイスラエルも一つになりファラオを追い込むことができま

す。政治の宗教利用の最たるもの。何と、それを指令しているのは主ご自身です。主

はイスラエルの民の犠牲を求めているのではなく、カナンの地まで導き上ることを約

束しておられるにもかかわらず、です。しかも、この第二のプロセスはうまく行かな

いことも、予見しています。神の強い手を必要としている、と。主がわたしたちを呼

び出されるとき、このような計画と戦略があるとすれば、わたしたちは、まず心を澄

まして、よく聞かなければなりません。神はモーセの志を助ける神ではなく、モーセ

を民の解放のために呼び出す神です。


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