199800412
1998年4月12日

「復活の信仰−生活のよりどころ」

コリントの信徒への手紙T15章1−19


 パウロは主イエス・キリストが死人の中から復活されたこととわたしたちも復活

の望があることと結び付けています。この希望が「生活の拠り所」であり、この希

望がなければ「わたしたちの宣教は無駄であり、あなた方の信仰も無駄です」と極

めて強いことばで語ります。復活の信仰は、確かに、ただキリストの復活の物語の

意味を理解して、その事実を受け入れると言うことにとどまりません。「この朽ち

るべき体が朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るようになる」

という驚くべき希望に向かって、わたしたちが生きるようにうながしています。

 この希望をしっかり身につけるためには、「どんな言葉でわたしたちが福音を告

げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」

といいます。こういってキリストの復活の出来事に出会った人たちのリストをあげ

ているのです。ペテロ、12弟子、500人以上の兄弟たち、ヤコブ、すべての使

徒、そして最後に「いわば月足らずで生まれたようなわたし」にも現れたと。ここ

で「現れた、あらわれた」と言葉を重ねていることの意味を考えると、これは、た

だキリストの復活の証人のリストをあげているというだけでなく、その現れはキリ

ストの復活の出来事が一人一人に起こした、それまでの生活とは全く違った新しい

生き方への出発点を表していると言えます。復活のキリストの現れは、それに出会

った人々には何かあるものを見たという日常的な経験とは全く違って、それまでの

生き方を変えてしまうような経験を与えるような出来事でした。主イエス・キリス

トは、まさに、きのうも、今日も、そのようにわたしたちにご自身を現してくださ

います。教会はその復活の主の現れに出会った人々の集まりです。

 キリストの現れの「最後」に出会ったパウロは、「わたしが今日あるのは神の恵

みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無

駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働い

たのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」といいます。

独特の謙遜と自負とが交差していますが、「神の恵み」という言葉が三度使われて

いて、生活の主体が彼自身ではなく「神の恵み」に変わったことを示しています。

わたしたちの罪のために死に、葬られ、三日目に復活されたキリストの現れに接す

るものは、これまでの生き方と全く変わって、自分を主体として生きる生き方から、

「神の恵み」を主体として生きる生き方に変わっていくのです。神の恵みによって

生きる生き方の解放と充実の片鱗を味わったら、「この朽ちるものが朽ちないもの

を着るようになる」という、将来わたしたちが味わう復活の希望は、当然のものに

なります。
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