出エジプト記4:1-9;マタイによる福音書10:5-15
モーセの召命の物語を通して、主なる神はわたしたちをどのように主の御用のため に呼び出されるかを学んでいます。それは主との深い対話の中で起こることを、この 物語は実によく示しています。モーセほど口答えし、ためらい、決然と従わない人は 珍しいですが、そのためらい方と主なる神の対応が、わたしたちの状況を照らしてい ます。 「それでも彼らは『主がお前に現れるはずはない』と言って信用せず、わたしの言 うことを聞かないでしょう」とモーセが逆らって言うのに対して、三つのしるしを示 して、このしるしをもって、イスラエルの人々のもとに、またエジプト王のもとに行 くようにといわれます。主がモーセの手で行われた「しるし」、杖を地に投げるとへ びに変わり、またその尾を取ると杖に戻る奇跡、手を胸に差し入れ出してみると雪の ように白くなってレプラに変わり、また胸に入れると癒されていた奇跡、ナイル川の 水を乾いた地に注ぐと血に変わる奇跡、これらは、『こうすれば、彼らの先祖の神、 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる』と、 モーセが神からの人であることを担保するしるしです。しかし、これらのしるしは、 後でどのような結果になったかを知ると、不思議です。たとえば、主の杖は、羊飼い モーセがいつも手に持っていた日用の道具で、これが主が共におられる時不思議な大 きな働きをすることを教えられ、エジプト脱出の解放劇の中で重要な小道具になりま す。しかし、杖がへびに変わることは、モーセにとってとびあがるほど驚く奇跡でし たが、それくらいのことはエジプトの魔術師たちもやれましたし、ファラオに対して たいしたインパクトを与えていないのです。神はなぜ、このような一時しのぎのしる しをモーセに与えられたのでしょうか。これは、しるしに頼ろうとするモーセに対す る神の『適合・妥協』(accomodation)と理解することができると思い ます。決定的なことは、自分の手でどのような奇跡(しるし)を行うことができるか ではなく、神が共におられ、神の語れと告げられたことだけ語ることであるはずです が、そのことが真にモーセの確信となるまで、神はモーセの弱さに合わせて、必要と 思う装備を備えられるのです。しるしは、人々の前で主の御用を権威をもって果たす ことができるようになるための、一時的なものに過ぎません。