12月5日
2004年12月12日

「誰が人間に口を与えたのか」

出エジプト記4:10-17;ルカによる福音書2:26-38


 主イエスを待ち望むアドヴェントの時、わたしたちはマリアやヨセフ、ザカリヤや

エリサベトなど、主の到来を待ち望み喜んだ人々の敬虔にふれます。その思いの深さ

に導かれて私たちも主を待つ心備えをします。それらの人々敬虔、信仰は、旧約聖書

がはぐくんだものです。その敬虔の先頭に立つのはモーセであるのは確かです。その

モーセが、主の呼び出しに応えてイスラエルの民を奴隷の家エジプトから解放するた

めに主の御用のために立ち上がるまでののろのろとした歩み、ためらいと戸惑いと抵

抗は笑い出したくなるほどですが、ふと振り返ると、わたしたちが主の呼び出しに対

して日々繰り返している態度を見せつけられているようです。

 モーセの最後の抵抗は、「わたしは言葉の人ではない。わたしは口が重く、舌の重

い者」という抗弁です。これを語る文章をよくみると、「わたし、わたし」〔ヒブル

語ではアノーキー〕という言葉と、「その上、その上」〔同じく、ガーム〕という言

葉が繰り返されているのが目につきます。神の召しだしに応えようとしないときに使

うキーワード、わたし、わたし、自分は、自分は、その上、それに、このことも、あ

のことも・・・。創造主が呼び出してくださっているのに、自分の事情や自分の弱さ

に固執し、自分の中から出ようとしないで、その上、その上と理由を重ねるのです。

しかし、モーセの固執した自分のウイーク・ポイントはよくわかります。神の救いに

かかわり、神の言葉を告げ知らせるために、わたしに最も欠けているものは何か。

「わたしの口は重い。わたしは舌の重いもの」この表現によって、きわめて素朴に最

も本質的な問題が示されています。神の生きた言葉を聞き、神の救いの福音をそのま

まの命と力を持って人々に伝えうるか、神の御用のために用いられる人は、いつでも、

どこでも、この立ちふさがる壁に圧倒されるのです。

 モーセに対する神の答えは、きわめて簡単、そして意表をつくものです。「一体誰

が人間に口を与えたのか。一体誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、

目を見えようにし、また見えなくしたのか。主なるわたしではないか」。まさに、

「わたし、わたし、その上、その上」で膨れ上がった風船を針の一突きでしぼませる

力をもった言葉です。主がわたしたちを呼び出し、用いてくださるのは、まさにこの

根源からなのです。


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