創世記17章1−27
創世記17章はアブラハムが99歳の時の出来事が記され、アブラハムに対する 神の語りかけが語られています。アブラハムが諸国民の父となること、サラが諸国 民の母になること、しかも「来年の今頃サラに男の子が産まれる」というはっきり とした約束が与えられ、その子をイサクと名付けるように指示されます。また、そ の契約のしるしに割礼を施すようにと命じられています。これまでになされてきた 祝福の約束が、一層はっきりとしてきたということです。 主なる神は、このアブラハムへの約束を、「永遠の契約」を立てると繰り返し言 われています。99歳のアブラハムに「永遠の契約」を立てると言うのはアイロニ ーのように見えます。今すぐにでも途絶えてしまう者に対して「永遠の契約」を結 んでも意味のないもののように思われます。しかし、この契約が永遠であるという ことは、契約を立てる神が永遠であるばかりではなく、その相手であるアブラハム にも、確実にその子孫を与えて、契約が永遠に途絶えてしまわないようにするとい う神の確かな決意を示しています。アブラハムに対して立てられた契約が永遠であ るならば、信仰によってアブラハムと連なるわたしたちにもこの契約は有効なもの としてあるということになります。主イエス・キリストの血によって立てられた新 しい契約は、ユダヤ人もなく異邦人もなく、だれでもキリストにある者は子として 受け入れてくださることを約束してくださったのですから。 この永遠の契約を受け入れるしるしとして割礼を施すよう命じられます。特に注 目したいのは、割礼を受けるのは永遠の契約を聞き取ったアブラハムだけではなく、 イシュマエルも家の子郎党、家のものとなった外国の者も共同体に属する者はみん なであるということです。割礼を受けることは洗礼と同じで契約に対する応答であ り、信仰告白の行為であり、きわめて個人的主体的なものです。しかし、そのしる しは、共同体全体、家族全体におよびます。ここに、永遠の契約を受ける者の、共 に生きる者に対する責任があります。神の祝福は共同体全体におよぶものですから、 その祝福の何であるかを知った者は、近い家族をもその契約に応答して生きていく ように、導き、訓練する責任が生じるのです。神の祝福を個人としてではなく、共 同体として受けるようにという神の指示ほど、わたしたちの中で忘れられ、聞き過 ごされていることはないのではないでしょうか。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る