199800426
1998年4月26日

「聖霊の証印」

エフェソの信徒への手紙1章11−14


 エフェソの手紙の冒頭にある大頌栄の最後の部分で、約束されたものの相続者と

された「わたしたち」と、福音を聞いて信じ、聖霊の証印を押された「あなたがた」

とが語られて全体の感謝が頂点に達します。このような「わたしたち」と「あなた

がた」との出会い、これは福音が宣教されるところではどこでも起こることですが、

このようなエフェソ書全体を貫く「わたしたち」と「あなたがた」との出会いにつ

いての驚きと感謝と共に心を合わせているかどうか点検する必要があると思います。

 ここで語られている「わたしたち」と「あなたがた」ほど遠く疎い関係はありま

せん。「わたしたち」は堕落し離散していく人類の歴史の中で、神の民として選ば

れ、神からの戒めとして律法を与えられたユダヤ人、そして、「あなたがた」は神

に呪われた異邦人です。わたしたちからあなたがたを見る目は、「愚かな考えに従

って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とそのかたくなさのために、神の

命から遠くはなれています」(エフェソ4.17)といった評価です。このような

高みから評価するものに対して、逆に、異邦人の側からは傲慢、冷血、狭量、非現

実といったことばで相手に逆襲することは容易でしょう。長い歴史のある敵対の関

係、決して相容れることのできない憎悪の関係、このような構造はどこの世界にも

ある「わたしたち」と「あなたがた」の関係です。

 しかし、この難しい敵対の構造を持った両者が、ここでは共に感謝し讃美を捧げ

る関係になっています。キリストにおいて約束されたものの相続者とされ、神の栄

光をたたえるためにいきている「わたしたち」と、キリストにおいて真理のことば

を聞き、約束された聖霊の証印を押された「あなたがた」。キリストにおいて一つ

にされています。なぜ敵対の関係から一つにされる関係に変わったのか、それはそ

れぞれの立っている点が、「キリストにおいて」立っているからです。わたしたち

も、あなたがたも、恵みによる選びと、キリストによる罪の赦しと、恵みによる召

命とによらなければ生きることができないと明らかになれば、互いに敵対しなけれ

ばならないとされた根拠がなくなってしまうからです。

 「聖霊の証印」はバプテスマのことを表すと考えられますが、「証印」は所有者

の所有権を明らかにし、保証するものです。聖なる霊、すなわち主イエス・キリス

トの現実存在が、証印を押された人の主人であり、保証をするということです。自

分が自分の保証をする必要がなく、キリストがわたしたちの身体と心のオーナーで

あり、また保証をする方なのです。聖霊は和解の主イエス・キリストのものである

わたしたちも、あたらしいわたしたちとあなたがたの関係に入れられるはずです。
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