4月27日
1997年4月27日

「サラの笑い」

創世記18章1−15


 主ご自身がアブラハムを訪れて、「わたしは来年の今ごろ、かならずここにまた

来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれています」と伝えま

す。これを天幕の入り口の後ろで聞いていたサラは笑っています。「自分は年をと

っており、もはや楽しみがあるはずがない」と思ったからです。サラの笑い、この

ような場面で、このように笑うのはどうしてでしょう。

 人間の笑いは、怒りや悲しみに比べても極めて複雑で、様々な奥深い人間の思い

をあらわしています。暖かい笑いもあれば、冷たい笑いもあります。軽い笑いに、

重い笑い、称賛の笑いに非難の笑い、正反対の気持ちを笑いは表します。サラはど

んな笑いをしたのでしょう。サラに告げられたことは、サラの人生全体に重く深い

陰を投げかけている問題でした。わたしたちが最初にサラに出会うのは、「不妊の

女」というレッテルとともにでした (11:30)。どれほど子どもが生まれないという

ことで悲しくむなしい涙を流したでしょう。アブラハムに与えられた諸国民の父と

なるという約束は、どこかでサラのそばをすり抜けていくようなものでした。そこ

で、命の源である主なる神ご自身が、「来年の今頃には母となる」というサラ自身

に対する確かな約束を与えられたとき、サラは笑ったのです。怒ったのではありま

せん。うれしさに躍り上がったのでもありません。笑ったのです。多くの注解者は、

このサラの笑いを、「冷笑、あるいは、嘲笑」と表現しますが、それほど強いもの

ではなかったのではないでしょうか。しかし、穏やかで柔軟な成熟した受け止め方

ではありますが、そこでサラは笑いをもって神の約束を押し返しているのは確かで

す。穏やかで柔和な反抗、神が約束されることより、自分の常識の方が正しいとし

ているのです。笑いというかたちの不信です。

 このサラの笑いに対して、主は「何故笑ったのか」とあえて問われます。サラは

「いえ笑いません」、「いや笑った」とユ−モラスな押し問答をしています。笑い

は無意識的で、普通は何故笑ったかなどとは問いません。しかし、主はあえてここ

でサラに問うことによって、サラの無意識的な不信の壁を破り、「主に不可能なこ

とはあろうか」という力強い言葉の前に、サラを立たせています。イサクは「笑う」

という意味です。サラから生まれたイサクは、まさに、人間の笑いと、神が与えて

くださる笑いとの間にある存在ということになります。

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