創世記18章1−15
主ご自身がアブラハムを訪れて、「わたしは来年の今ごろ、かならずここにまた 来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれています」と伝えま す。これを天幕の入り口の後ろで聞いていたサラは笑っています。「自分は年をと っており、もはや楽しみがあるはずがない」と思ったからです。サラの笑い、この ような場面で、このように笑うのはどうしてでしょう。 人間の笑いは、怒りや悲しみに比べても極めて複雑で、様々な奥深い人間の思い をあらわしています。暖かい笑いもあれば、冷たい笑いもあります。軽い笑いに、 重い笑い、称賛の笑いに非難の笑い、正反対の気持ちを笑いは表します。サラはど んな笑いをしたのでしょう。サラに告げられたことは、サラの人生全体に重く深い 陰を投げかけている問題でした。わたしたちが最初にサラに出会うのは、「不妊の 女」というレッテルとともにでした (11:30)。どれほど子どもが生まれないという ことで悲しくむなしい涙を流したでしょう。アブラハムに与えられた諸国民の父と なるという約束は、どこかでサラのそばをすり抜けていくようなものでした。そこ で、命の源である主なる神ご自身が、「来年の今頃には母となる」というサラ自身 に対する確かな約束を与えられたとき、サラは笑ったのです。怒ったのではありま せん。うれしさに躍り上がったのでもありません。笑ったのです。多くの注解者は、 このサラの笑いを、「冷笑、あるいは、嘲笑」と表現しますが、それほど強いもの ではなかったのではないでしょうか。しかし、穏やかで柔軟な成熟した受け止め方 ではありますが、そこでサラは笑いをもって神の約束を押し返しているのは確かで す。穏やかで柔和な反抗、神が約束されることより、自分の常識の方が正しいとし ているのです。笑いというかたちの不信です。 このサラの笑いに対して、主は「何故笑ったのか」とあえて問われます。サラは 「いえ笑いません」、「いや笑った」とユ−モラスな押し問答をしています。笑い は無意識的で、普通は何故笑ったかなどとは問いません。しかし、主はあえてここ でサラに問うことによって、サラの無意識的な不信の壁を破り、「主に不可能なこ とはあろうか」という力強い言葉の前に、サラを立たせています。イサクは「笑う」 という意味です。サラから生まれたイサクは、まさに、人間の笑いと、神が与えて くださる笑いとの間にある存在ということになります。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る