1月2日
2005年1月2日

「血の花婿」

出エジプト記4:18-26;ローマの信徒への手紙3:1-8


 神の呼び出しに、モーセはやっと重い腰を上げて行動を開始します。エジプトに向

かって妻子を連れて歩き出すのです。しかし、その足取りは軽快ではありません。印

象的なのは、妻の父ミデアンの祭司エトロに旅立ちの理由を話す時、一言も神がモー

セに与えられた大きな務めのことは語っていないことです。『エジプトにいる親族の

もとにかえらせてください。元気でいるかどうか見届けたいのです。』どうしてモー

セはそのような言い方をしたのでしょう。余計な心配をかけたくなかったから。反対

されるのを恐れたから。・・・いや、何よりも、モーセ自身が、自分に与えられた神

の呼び出しに半信半疑で、深い確信と完全な服従にいたっていないことを象徴する言

葉ではないでしょうか。同じようなことが、この世で生きるキリスト者の中でも様々

なレベルで起こることをわたしたちは知っています。当たり障りのない言葉によって

旅立ちの理由を語るモーセを、むしろ決然と送り出したのはエトロの方でした。モー

セはエトロの言葉に押されるようにして、妻子をロバに乗せ、手には神の杖を持って

エジプトへの道をたどります。モーセには『わたしは必ずあなたと共にいる』という

神の約束より、目に見える『神の杖』が頼りで、これにしがみついて、やっとの思い

で歩き出しているかのようです。

ところが、旅立ったとたん不思議な出来事に遭遇するのです。主がモーセを殺そうと

立ち向かってこられたので、妻のチィッポラが息子の前の皮を切り取って夫の両足に

つけ、『これはわたしの血の花婿』と叫んだので死を免れた、と。M・ブーバーが、

『今しがた獲得されたばかりの確実性の突然の崩壊・・・ヤハウエがデーモンとして

モーセに出会う物語』と表現している事態です。血や割礼といったイスラエルの習俗

にかかわる謎の奥行きと広がりは別にしても、神の不気味さ不可解さ、恵みと慈しみ

と同時に底知れぬ恐ろしさをたたえている姿が示されています。アブラハムにイサク

を「はんさい」としてささげよと語られた神、信仰者を襲う様々な試練のことが思い

起こされます。何ゆえに神の試みはあるのか。命を奪い取るほどの苦しみに何か意味

を見出すことはできるのか、と思いは広がります。少なくとも、ここでモーセは、受

けた試みによって、神がやれというからやる、神が自分を支えてくれる限りにおいて

自分の務めを果たす、というような主体性と誠実さを欠いた服従の姿勢が問われてい

るように思われます。試みを受けた後のモーセの足取りが、むしろ軽くなっているの

です。そして、この場合も、痛みを負い、血を流したのは、モーセではなく息子のゲ

ルショムでした。血の代償を備えてくださるのも、また神の業です。


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