出エジプト記4:18-26;ローマの信徒への手紙3:1-8
神の呼び出しに、モーセはやっと重い腰を上げて行動を開始します。エジプトに向 かって妻子を連れて歩き出すのです。しかし、その足取りは軽快ではありません。印 象的なのは、妻の父ミデアンの祭司エトロに旅立ちの理由を話す時、一言も神がモー セに与えられた大きな務めのことは語っていないことです。『エジプトにいる親族の もとにかえらせてください。元気でいるかどうか見届けたいのです。』どうしてモー セはそのような言い方をしたのでしょう。余計な心配をかけたくなかったから。反対 されるのを恐れたから。・・・いや、何よりも、モーセ自身が、自分に与えられた神 の呼び出しに半信半疑で、深い確信と完全な服従にいたっていないことを象徴する言 葉ではないでしょうか。同じようなことが、この世で生きるキリスト者の中でも様々 なレベルで起こることをわたしたちは知っています。当たり障りのない言葉によって 旅立ちの理由を語るモーセを、むしろ決然と送り出したのはエトロの方でした。モー セはエトロの言葉に押されるようにして、妻子をロバに乗せ、手には神の杖を持って エジプトへの道をたどります。モーセには『わたしは必ずあなたと共にいる』という 神の約束より、目に見える『神の杖』が頼りで、これにしがみついて、やっとの思い で歩き出しているかのようです。 ところが、旅立ったとたん不思議な出来事に遭遇するのです。主がモーセを殺そうと 立ち向かってこられたので、妻のチィッポラが息子の前の皮を切り取って夫の両足に つけ、『これはわたしの血の花婿』と叫んだので死を免れた、と。M・ブーバーが、 『今しがた獲得されたばかりの確実性の突然の崩壊・・・ヤハウエがデーモンとして モーセに出会う物語』と表現している事態です。血や割礼といったイスラエルの習俗 にかかわる謎の奥行きと広がりは別にしても、神の不気味さ不可解さ、恵みと慈しみ と同時に底知れぬ恐ろしさをたたえている姿が示されています。アブラハムにイサク を「はんさい」としてささげよと語られた神、信仰者を襲う様々な試練のことが思い 起こされます。何ゆえに神の試みはあるのか。命を奪い取るほどの苦しみに何か意味 を見出すことはできるのか、と思いは広がります。少なくとも、ここでモーセは、受 けた試みによって、神がやれというからやる、神が自分を支えてくれる限りにおいて 自分の務めを果たす、というような主体性と誠実さを欠いた服従の姿勢が問われてい るように思われます。試みを受けた後のモーセの足取りが、むしろ軽くなっているの です。そして、この場合も、痛みを負い、血を流したのは、モーセではなく息子のゲ ルショムでした。血の代償を備えてくださるのも、また神の業です。