出エジプト記5:1-9;マタイによる福音書7:13-20
ミデアンの荒れ野で羊飼いとして40年間を過ごしたモーセは、アロンと共にエジ プトに戻り、奴隷の民イスラエルを約束の地カナンに導き登上るための解放闘争の始 まりです。この物語ほど世界のあらゆる民族の解放運動に大きな励ましと、方法、勇 気を与えたものは少ないでしょう。アメリカの黒人の公民権運動しかり、韓国の民主 化運動しかり。しかし、聖書の物語は、驚くほど簡単に、モーセとアロンはイスラエ ルの長老たちの信任を取り付け、エジプト王ファラオとの対面が果たされたことを伝 えています。これは物語を伝える技法です。周辺の部分をすべて取り払って肝心のこ とだけを語ろうとしているのです。したがって、わたしたちがこれを読むとき、わた したちの経験や状況と深く照らしながら読めば読むほど、そのリアリティーが迫って くることになります。聞く人の力量が問われるのです。 さて、モーセとアロンがエジプト王に会って話したことは、もう既に荒れ野で神が モーセに語られたとおりのことであって、目新しいものではありません。「わたしの 民を去らせて、荒れ野でわたしたちの神のために祭りを行わせてください」という要 求を、『主は、こういわれます』という言い方で突きつけているのです。エジプト人 のイスラエル人に対する差別や不当労働行為に対する抗議ではありません。イスラエ ルの民をカナンの地に去らせてください、という要求でもありません。人間としての 尊厳を取り戻し、本来の人間の生きるべき場を確保する要求を、モーセとアロンは、 主なる神が語られることとして、『わたしたちの神のために祭りを行わせてください』 と求めているのです。この巧妙な戦略が意味していることは,既に学びました。ここ で繰り広げられている不思議な構図のことは、これからも続くことですから確認して おく必要があるでしょう。この解放物語は、二つの現実が重なり合って展開されてい る構図になっているのです。神とモーセ、アロンとの対話のレベルの世界があり、そ してモーセ、アロンとファラオとの対話のレベルの世界があります。はじめのレベル の世界は目に見えない言葉だけの世界、次のレベルは現実のこの世界の人間とのふれ あいの世界、しかし、本当に現実的なのは、はじめの目に見えないレベルの世界であ って、ここで語られたことが現実の世界で実現して行くのです。ファラオは、「ヤハ ウエとは一体誰か、どうしてわたしがヤハウエの声に聴き従わねばならないのか」と 当然の疑問を発しています。このような疑問を抱かせることによって、もう既に神の 救済計画は軌道に乗り始めているのに気づかされます。信仰者は、このような構図を 心のうちに持っていますね。