出エジプト記5:4-16;Tコリント10:1-13
モーセとアロンがエジプトの王ファラオと対面し、ヤハウエを礼拝するためにイス ラエルの民を荒れ野に行かせて欲しいと要求しますが、当然のように、その交渉は行 き詰まります。ファラオは、「主とは一体何者か、どうしてその言うことを聞いてイ スラエルを去らせなければならないのか」と問うばかりではありません。そのような 要求をするイスラエル人を「怠け者」、「偽りの言葉に心を寄せるもの」と判断し、 「わら」を支給しないで、これまでどおりの分量のれんがを造るようにという過重な 要求をしてきました。このことによって、「イスラエルの人々はますます苦境に立た されたことを知った。」今日、わたしたちに与えられている課題は、この苦境のこと を良く考えることです。それは、神が聞いておられ、見ておられ、救いの手を差し伸 べられることになる人間の「苦境」だからです。 イスラエルの民が「神を礼拝したい」という願いは、ファラオにとっては、労働を やめる、仕事から身を引き離す要求にしか過ぎず、「怠け者」という人間の倫理性に かかわる貶められた評価の対象になっています。人間としての最も深い願い、人間性 を回復する場所と時、「礼拝」は、無駄、仕事量の低下、損失でしかないのです。な ぜ、そのような評価をすることになるのか。それは、既に見たように、ファラオは、 イスラエルの人々がエジプトに増えてゆくのを脅威と感じて強制労働につかせ、その 数をいかに減らすかという政策の下でイスラエル人を扱っているのですから、彼らを 自分と同じ人間と見做す感性を全く持っていないからです。「主とは何者か?」と問 う人、主を知らず、自らを主とするのみの人の姿が良くあらわされています。このエ ジプトの抑圧政策は、国家の政策であり、これが何世代にも続く時、差別は制度化し、 固定化し、限りなく再生産されて行きます。礼拝する人間は怠け者、という価値観が 定着するのです。「世界の奴隷制の歴史」を書いたオルランド・パターソンは、「奴 隷とは生まれながらに疎外され、全体として名誉を喪失した人間が、永続的かつ暴力 的に支配されることである」と奴隷を定義しています。『社会的に死んだ者』とも言 います。最も根源的に人間としての誇りを奪われた状態の人間は、『わら』一つで、 ますます苦境に貶められてゆくのです。このような組織化され、制度化された人間の 苦境、これは遠い昔の現実とは言えません。 神は、この人間の苦境を見て、放置されず、解放の手を伸ばされます。今わたした ちは、礼拝をするものとして、この物語を聞いています。物語の中で、これこそ、苦 境の中から解放されるべき目当てとされた時にいるのです。