出エジプト記5:20-6:1;Tコリント10:1-13
『どうか主があなたに現れてお裁きになりますように。あなたたちのお陰で、我々 はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したの と同じです。』 ファラオのもとから出てきたイスラエルの監督たちがモーセとアロンを責める言葉 です。主を礼拝するために、エジプトにいるイスラエルの民を去らせて欲しいという 要求は、以前に倍する過重な労役を課せられることになったことに対し、取り返しの つかないことになった、と仲間同士の争いに発展しています。ここで、『嫌われてし まった』というところは、正確には、『臭いにおいを発するものになった』というこ とです。過重なノルマやファラオの非難より、自分たちの発するにおいが、『我々を 殺す剣』になることを恐れている、というところはとても興味深いところです。「に おい」はあって無きがごときものです。しかし、人間の差別につながる非人間的な関 係において、「におい」は極めて深い意味を持っています。「田舎臭い」とか『臭い 芝居』などとけなし、集団への同化が進むと『臭みが取れた』などといいます。もち ろん、この「くさみ」は実体的なものではなく精神的なもの、言葉や振る舞いにかか わることです。イスラエルの監督たち、エジプト人のために同胞イスラエルを強制労 働に駆り立てる役割を担った下役たちの置かれている精神状況がよくわかります。で きるだけエジプト社会の中で臭みのない人間として生きることこそ、彼らの生死をか けるほど大事なことだったのです。こうして内側からの差別が進行して行きます。彼 らの恐れた「くさみ」とは何であったか、それは、『神を礼拝する者であること』で した。 このような抗議を受けたモーセは、主に祈ります。『わが主よ、あなたはなぜ、こ の民に災いを下されるのですか。わたしを遣わされたのは一体なぜですか。』モーセ もまた、動揺する人、神に抗議する人として祈っています。『神の強い手』によらな ければ、ファラオの心を変えることはできないと、すでに聞いており、予定通りのこ とが起こっているのですが、現実に直面すると、『わたしを遣わした神』を疑ってい るのです。主に遣わされたものは、何の苦労もなく、現実と何のかかわりもなく、救 いの奇跡を起こすことができるものとして働くことなどあり得ません。しかし、しば しば、わたしたちの中でも、このような祈り、訴えを神に向かってしていることに気 づかされます。「わたしに偏した祈り」です。しかし、祈りは、このように人間の罪 をあらわにする所であると共に、また、主のみ言葉を聞くところでもあります。『強 い手』によって必ず導き出す、と。