1月30日
2005年1月30日

「わたしは主である」

出エジプト記6:2-13;ヨハネによる福音書17:20-26


 モーセとアロンが、エジプト王ファラオとの最初の交渉に挫折して、くず折れて祈っ

たときに、主・ヤハウェが語られた言葉の中核は、『わたしは主である』ということ

でした。繰り返し、繰り返しこの言葉(ヘブル語で”アニー ヤハウェ”)が語られ

ます。なぜ自分を遣わされたのかと主に向かって訴えるモーセに対して、主は、主ご

自身がどのようなお方であるかを明らかにされます。この構造は、聖書全体を貫くも

ので、わたしたちも同じような経験をします。『内なる宮』において、失望や挫折か

ら立ち上がらせられる慰めと勇気を与えられるのは、まさに、キリストにあって『わ

たしは主である』と語られる主に出会うことによってです。

 ”アニー・ヤハウェ”はここで4回語られますが、その中で主がどのような方であ

るかが明らかにされてゆきます。『わたしは主である。・・・アブラハム、イサク、

ヤコブと契約を結び、カナンの土地を与えると約束した。エジプトにいるイスラエル

の人々のうめきを聞き、わたしの契約を思い出した』(4節)。『わたしは主である。

あなた方をエジプトの重労働から導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし大

いなる審判によってあなたたちをあがなう』(6節)。『わたしは主である。わたし

はあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる』(7節)。『わたしはヤ

ハウェ。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあ

なたたちを導き入れ、その土地をあなたたちの所有として与える』(8節)。このよ

うに、主は、具体的現実的に救いあがなう方であると共に、その働きを契約に基づき、

神と人との本来の交わりの回復にはっきりとした目的をもってなされる方であること

が分かります。

 モーセは、この『わたしは主』を知り、この言葉をもって再びファラオのとの交渉

の場に出て行きます。そこで、前と同じようにファラオのかたくなな心、人々の不信、

分裂に出会います。しかし、もう現実の事態に動揺して、『どうしてわたしをお遣わ

しになったのですか』と祈ることからは卒業しています。モーセにとっては、主に祈

り、主との交わりの場が、現実からの逃避の場、傷ついたときの慰めの場、一時しの

ぎの場ではなく、『わたしは主』と語られる主との交わりの場こそ、本当の現実の場

であり、その現実の場から、この世の現実の場に遣わされて生きてゆくことが確立さ

れているからです。『わたしは主』と語られる方と本当に向き合って生きてゆくよう

になっているのです。このように、『わたしは主』と語られる方との交わりが確立し、

その言葉を聞いて生きる人だけが、現実のファラオの権威に立ち向かい、その重圧の

元でうめきながら生きている人々を、約束の地に導き出す現実的な働きをすることが

できる人となります。


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