2月13日
2005年2月13日

「わたしが手を伸ばして」

出エジプト記6:28-7:7;マルコ5:21-43


 モーセとアロンがエジプト王ファラオに対して、イスラエルの民を神を礼拝するため

に荒れ野に行かせてほしいと要求し、あえなくその要求が退けられただけでなく、もっ

と過酷な重労働が課せられることになりましたが、主なる神は、さらにモーセに向かっ

て、ファラオのところに行って語れと命じられます。主なる神が命じられること、これ

に対してモーセが応答することの内容は、これまで聞いてきたこととほとんど同じパタ

ーンで、神は語り、モーセはためらい抵抗する、という形です。しかし、同じ言葉の繰

り返しのようですが、よくみると、その中に少しずつ変化しているところがあって、そ

の微妙な言葉の変化の中に、神の導きに従って歩みだす人間の有様を学ぶことができま

す。

 モーセのおなじみの口答えは、ここでは、『ご覧の通り、わたしは唇に割礼のないも

のです』となっています。このような言い方が意味することは、ユダヤ人でなければ通

じないでしょう。割礼は男の子が生れて8日目に性器に施す特別な手術ですから、”唇

に割礼“等はあり得ないわけですが、聖書を通読すると、割礼と無割礼との区別する意

識はユダヤ人が神の民として生きていることの誇りの源泉であることがわかります。預

言者たちはそれを逆手にとって、神の言葉に聞き従わないイスラエル人を『耳に割礼の

ないもの』とか、『心に割礼を施せ』というような説得の仕方をしています。パウロは

『ユダヤ人にとって割礼の益とは何か?』と問うて、それは第一に『神の言葉が委ねら

れていること』と答えています。このような文脈でモーセが『わたしは唇に割礼のない

ものです』と答えた意味を考えてみると、そこにモーセの心のありかを確かめることが

できます。燃える柴の中から神に呼び出されたモーセは、これまで「わたしは何者なの

でしょう、どうしてわたしが・・・」とか、『わたしはもともと弁が立つほうではあり

ません』とか、『誰か他の人を遣わしてください』といってきましたが、今や、そのよ

うなこととは違う方向で主の言葉を聞き始めています。うまく人々に話せない自分、目

前の状況に絶望して耳を傾けようとしないイスラエルの同胞、心のかたくななファラオ、
それらが主なる神の言葉に従うために厚い壁になっているのではない。自分自身の心が

、神の言葉を語るものとして、そのみ言葉に服し、聖別されたものとなっていない,そ

こにこそ問題がある、と認識し始めているのです。そこから、『どうしたら、ファラオ

がわたしの言葉に耳を傾けるようになるでしょうか』と神に問うています。まさに、こ

こでモーセは気づくべきことに気づいた、問題の核心に行き当たり、そこから、本当に

祈り求めなければならないものが何かを知るようになった、というべきでしょう。主の

呼び出しに応え、み言葉に従って歩みだすものは、誰でも、この心の小さな変化を知ら

ないものはいません。


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