エフェソの信徒への手紙1章15−18
エフェソの信徒への手紙の冒頭、大頌栄に頌栄に続いて感謝と祈りの長い文章が あります。感謝から祈り、祈りから解説へと内容は流れていき意味を捉えにくいと ころです。手紙を書いている人が相手の教会の信徒の信仰と愛の実践の生活を思い 起こして祈りの度毎に神に感謝し、さらに彼らが心の目が開かれて信仰者に与えら れている希望や受け継ぐべき資産がどんなに大きいか、また、彼らに働いている神 の力がいかに絶大かを知るようにと祈っています。感謝から取りなしの祈りへ、こ の構造はフィリピの信徒への手紙でも、またコロサイの信徒への手紙でも見出すこ とができます。フィリピでは「あなた方が最初の日から今日まで福音にあずかって いることを感謝」するところから、「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力を 身につけてあなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことが見分けられま すように」と展開します。コロサイではあなた方がキリストイエスについて持って いる信仰とすべての聖なる者たちに対して抱いている愛について神に感謝する」と いうところから「どうか霊によるあらゆる知恵と理解によって神の御心を十分悟り、 すべての点で主に喜ばれるように。主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を 結び、神をますます深く知るように」と祈っています。他者について想起し、感謝 し、それが祈りになっていく、これはキリスト者にとってはあまりにも普通のこと ですが注目に値する不思議なかたちです。 ここでは独特の教育的なプログラムが展開されていると考えることができます。 相手について何かのことを教えて感謝するということは、相手の現実について認識 し評価することを意味します。しかし、その評価は神に対する感謝という形の評価 です。このような認識の仕方は教える者と教えられる者、指導者と弟子、世話をす る者と世話をされる者の関係の中で、教育される者を正しく捉え、また教育する自 分の位置を正しく捉える秘訣です。そして、このように感謝している中でさらに成 長し発展させられるべき課題と問題点があきらかにされ、それは主に祈り求めるべ き課題として祈られるのです。これまでわたしたちが真に成長といわれるものを経 験したのはこのような「感謝と祈りの学校」の中ではなかったでしょうか。このよ うな学校の中で人間の知恵や世渡りが教えられるのではありません。心の目が光り に照らされて明るくされ、消えることのない希望を知ることになるのです。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る