3月6日
2005年3月6日

「血の災い、蛙の災い」

出エジプト記7:14-8:11;コリントの信徒への手紙二4:7-15


 エジプトにいるイスラエルの民を重労働の苦しみから解放する主なる神の働きはいよ

いよ全速回転です。モーセとエジプト王ファラオとの対決は、杖をいへびに変える奇跡

が何の効果も及ぼさないと見るや、矢継ぎ早に、血の災い、蛙の災い、ぶよの災い、と

次々に10の災いをもってファラオのかたくなな心を揺さぶります。この国民的な解放物

語はこのようにして滑稽にしてグロテスクな大スペクタクルを展開してゆきます。物語

として面白くはありますが、10もの災いが繰り返されるうちに、同じパターンの連続で

すから退屈を感じるところもあります。しかし、これを現代のわたしたちが生きている

世界の状況と重ね合わせて見ると、非常に現実的なことが語られていることに気づかさ

れます。

 物語の構造に目を留めてみると、ここには明らかに対立する二つのグループ、すなわ

ち、奴隷の民イスラエルとその代表として語るモーセとアロンが一方に、そして、他方

に抑圧をしてやめないエジプト人とその王ファラオがいます。この両者が向かい合って、

前者は解放を求め、後者は、これをかたくなに拒む、という構造です。ところが、この

対立構造は、いつも少しずつずれてゆきます。民の要求は苦役の軽減ではなく、先祖の

神を礼拝するために荒れ野に行かせて欲しいと求めます。ファラオはイスラエルの神な

ど知ったことではない、と神とファラオの対立の方にずれて行き、そして、ついに、フ

ァラオはイスラエルの民の要求と向かい合うのではなく、ナイル川の水が血に変わった

り、ナイル川からかえるが沸きあがってきたりして地に臭気が満ちるといった、自然と

の対立の方にずれてくるのです。神の御手がこのように働いています。イスラエルの人

々の叫びや呻きと正しく向かい合わないことによって、いつの間にか、ナイルの自然の

暴発と向かい合わなければならなくなっているのです。これは地球温暖化などで騒いで

いる現代の社会の姿そのものではないでしょうか。人間の社会にある不正義、天に向か

う叫びがあるとき、その叫びが主なる神によって聞かれている「しるし」は、神が創造

された世界、自然の中に現れてくる。秩序あるものとして保たれている自然が、突然暴

発して、混沌とした深淵をのぞかせることになる、ここに、神の御手が伸ばされている

ことを知ることができるというのです。

 それにしても、ファラオの心はかたくなです。モーセやアロンが水を血に変えたり、

蛙をわきあがらせたりしても、同じような不思議なことをエジプトの魔術師にやらせて、

少しも動じることなく、主なる神の声を聞こうとしません。神の声を聞こうとしないも

のは、人の呻きや叫びにも耳を傾けません。しかし、主なる神が人間のかたくなな心に

立ち向かう手立ては、一つや二つではないのです。思わぬ仕方で、人間の生命の根源を

揺り動かし、混沌の深淵をのぞかせるさまざまな手立てを用いることがおできになりま

す。


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