出エジプト記9:1-12
主なる神は、エジプトの王ファラオに対して、「わたしの民を去らせてわたしに仕え させよ」と求め、この求めにたいして心をかたくなにして従わないファラオとエジプト に、度重なる災いをもって臨みます。大いなる災いが立て続けに起こり、「国はアブの 故に荒れ果てた」という事態になります。更に、あらゆる家畜が疫病に倒れ、いやな膿 の出るはれものが人と家畜につき苦しめます。立て続けに起こる災害、台風、地震、津 波、鳥や牛に及ぶ疫病は昔の話ではなく、わたしたちが今生きている現実の出来事です。 それらは自然の災害ですが、人間の営みと無関係ではありません。災害に次ぐ災害の連 なりで、人間のあり方にたいして神が問いかけておられるものは何か、神の御手はどの ように働いているか、と問うことは無駄ではないでしょう。エジプトでは、人間を人間 として扱うのではなく、道具として扱うことのゆえに、叫び呻くイスラエルの人々の声 を神が聞かれるとき、自然の秩序の果てしない狂乱が生じているのです。 しかし、ファラオはその言葉に従おうとしません。「心を頑迷にして、民を去らせな かった」のです。「心」は「決断の基盤」です。考え抜いた末に決断し、それに基づい て行動する、その基盤、それが「心」といわれるもの、それが「頑迷、かたくな、強固」 であったのです。「かたくな」という言葉は、聖書では二つのヒブル語で表現されてい ます。「かたい」という意味の言葉と、「重い」という意味の言葉です。従って、「心 を頑迷にして」ということは、柔軟に、軽快に、開かれた心で、とは反対の心、堅く、 重く、閉ざされた心で、ということです。ファラオがこのような心になったので、神は 災害を起こしたのではありません。災害が起こると、堅い心になって、従わなくなるの です。そこで、また、次の災害が起こる。この繰り返しです。その「かたくなな心」は どこからくるのか。驚くべきことに、聖書は、「主がファラオの心をかたくなにされた」 と記しています。こうして、「わたしが主であることを知るようになるためだ」と。人 がかたくなになればなるほど、主は、そのかたくなさを用いて、ますます、ご自身の力 をその人の上に及ぼされる、というのです。閉ざされた心、重く固い心は、こうして主 の大いなる力が働く機会を提供します。 ここで、くりかえしファラオに要求される神の命令は、「わたしの民を去らせて、わ たしに仕えさせよ」、であったことは注目すべきところです。「わたしに仕えさせよ」 という要求、これは「礼拝させよ」ということです。主なる神を主として礼拝すること、 このことこそ、苦役に悩む民を真に解放し、エジプトを回復させるのです。