4月24日
2005年4月24日

「イナゴの災い」

出エジプト記10:1−20;ルカによる福音書4:35−41


 主なる神がエジプトにいるイスラエルの民を解放するために次々に繰り出す災いの第

8はイナゴの災いです。イナゴの襲来によって「地は暗くなり」、すべての木々や草を

食い尽くしたので、「エジプト全土のどこにも緑のものが何一つ残らなかった」という

情景は、恐るべきものです。しかし、これでもファラオは心をかたくなにしてイスラエ

ルの人々を去らせることを許しませんでした。これまでと同じパターンです。しかし、

ここで興味深いのは、イナゴの災いがエジプトに臨むまでの過程が、これまでより一層

複雑になっています。まず、モーセと主との対話があり、次にファラオとの対話、そし

て、ファラオと家臣との対話、モーセとファラオとの対話と4つのステップがあるので

す。ここで、エジプトの側に、ある独特の戸惑いと恐れが広がり、動揺が生じているこ

とが分かります。その前に、まず、主が、「ファラオの心を頑迷にしたのは,わたし自

身である」とはっきり語られ、それは、「しるし」であり、それを「あなたが子孫に語

り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである」というのです。「しる

し」としての災い、「しるし」としての頑迷さ、というところに注目させられます。

 ここでいう「しるし」は、具体的にはイナゴの害、雹の害など自然の災害であり、歴

史的な出来事です。また、ファラオの心が頑迷になることです。これが「しるし」とな

る。すなわち、主が働いている「しるし」です。「しるし」と出来事のつながりは、見

える人には見えるし、見えない人には見えません。また、一つの出来事は、「しるし」

であって、もっとおおきな一連の出来事の一部に過ぎません。すべての出来事によって

示される「しるし」を正しく聞き取って、そこで起こっていることが何かを知ることに

よって、モーセは大胆にファラオの前に立って語り、また、子々孫々に語り伝えること

が主から託されています。目に見える歴史的な出来事と、その「しるし」が指し示して

いることとを正しく読みとること、そこに、主の歴史支配のみ手を知ることは、信仰者

の務めです。それは、現在の韓国や中国の人々の反日デモという現象から、どのように

行動し、何を語り伝えなければならないか、という課題とも深くつながっています。

 ここで新しい展開を示すのは、ファラオの家臣たちの反応です。「いつまで、この男

はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、主に仕えさせ

てはいかがでしょうか・・・。」家臣たちは「しるし」を読み取っています。しかし、

正しくは読み取っていません。「主の大いなる御手」ではなく、「この男」すなわち

「モーセ」がすべての災いの元凶、と見ているのです。目に見える荒廃を恐れるだけで、

本当に畏れるべきものを見ていません。このような「しるし」の見方が、「偶像礼拝」、

神ならぬものを神とし、形あるものを神として拝することによって、それに奴隷的に支

配されるのです。


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