出エジプト記12:21〜37;ヘブライ人への手紙9:11〜22
エジプトにいたイスラエルの民が、奴隷の家から解放され、自由の民として荒れ野の 旅に出発したのは、主の「過ぎ越し」の出来事のゆえでした。「その夜、わたしはエジ プトの国を行き巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべてのういごを撃つ。 ・・・あなたたちの家に塗った血はあなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わた しはあなたたちを過ぎ越す。」 主がエジプトを撃たれたその夜、主の言葉どおり、イスラエルの人々は小羊の血を家 の入り口の柱と鴨居に塗って、滅ぼすものが家に侵入することを免れ、国中に上がる悲 嘆の叫びの中で、ついにエジプトを脱出することになったのです。この歴史的な出来事 を記念してイスラエルの民は、毎年、年の初めに「過越祭」を行います。聖書の記述は、 過ぎ越しの歴史と過越祭の守り方とを混在させながら説きすすめる独特の書き方をして います。歴史的な出来事が祭儀の起源であると同時に、繰り返し行われる祭儀が歴史を 再現するという仕組みになっているのです。このことは、歴史を風化させないためにど うすればよいのかという、きわめて現代的な日本の課題に対して深い示唆を与えます。 過越祭では、毎年小羊が屠られ、ニガナを添えた種なしのパンを食べる食卓に家族が集 まります。その中で、必ず、その家の子供が「この儀式は、どういう意味があるの」と 聞くことからこの食事が始まることになっています。子供の問いが、その食卓のはじめ であり、それに続いて父親の説明、そして祈りと讃美(ハレルの詩篇113〜118) が歌われ、パンの祝福、杯の祝福と続きます。主の救いの歴史が、このように家族の中 で再現され、感謝と祈り、そして、そのように救われたものとしての責任と使命が自覚 されるのです。 過越祭によって再現されるイスラエル救出の歴史は、ただならぬ救いです。民が奴隷 の家から救出されるために、エジプト中のういごが殺されています。ファラオのかたく なさは、このような犠牲を払わなければ打ち砕かれなかったということ、また、一つの 救いは、これほどの犠牲と代償なしには起こりえない、ということも示唆しています。 わたしたちが得ている幸福と自由は、単に幸運であったというだけではすまない、何か の犠牲と代償によっていると感じることを、最も大事な祭儀としているのです。ういご の死、そして、小羊の血、それなしにはありえなかった救い、そのことを考えることに よって、今、自分たちの家族と共同体はどこにいるかを、主の前で考える・・・。キリ スト者の礼拝は、この過ぎ越しの礼拝を原型にして、わたしたちの代わりに罪を負って 十字架にかかり、復活された主イエス・キリストの御名をたたえて礼拝します。