出エジプト記12:43〜51;ローマの信徒への手紙3:21〜26
出エジプト記12章の最後の部分は、過越しの食事に参加することができる人の資格 のことが記されています。明らかに、これはわたしたちとは遠いイスラエル社会の中で の習慣です。しかし、過越祭は教会の聖餐式の原型であり、現下の日本キリスト教団の 大きな神学的関心事は聖餐式の陪餐資格の問題ですから、過越祭の参加資格のことを考 えることは聖餐式の陪餐資格を考える格好の手がかりとなります。 過越祭の食事、家族で、種なしのパンをニガナ、そして子羊を屠ってローストにして 食べる、その特別な食事に参加できるのは、要するに、「イスラエルの共同体」の属す る人であって、それ以外の人は参加できない、ということです。外国人、奴隷、寄留者 に全く門が閉ざされているのではありません。「割礼を受けた後」これにあずかること ができる、というのです。これは非常に厳かな戒めとして語られています。ここで、「 共同体」と訳されている言葉はエーダーというヒブル語ですが、これは後に「教会」と 訳されるようになった言葉の一つです。「教会」を表す言葉はもう一つあって、これは カーハールといいますが、カーハールが集団,人間の集りとしての教会を表わすのに対 して、エーダーは一人一人呼び出されたものの集まり、それぞれに役割を持ち責任のあ るものの集まりとしての教会を表わします。過越祭の食事は、従って、神の不思議な導 きによって、エジプトの地、奴隷の家から解放され、荒れ野の40年の旅をし、父と蜜 の流れる約束の地に導きいれられた運命を共にする共同体、その子孫が行う食事です。 では、この共同体に参加するのは、どういう人か。これは、イスラエルの氏族に属する 人だけではありません。エジプトを出たのは、「種々雑多な人々」もこれに加わってい たことがすぐ前のところに記されていました。同一民族や同じ社会階層の共同体ではな く、エジプトの奴隷であったこと、そして神に導き出されたことを共通体験とする集団 でした。過越祭の食事の参加資格がイスラエルの共同体の者に限られていたということ は、偏狭な排外主義なのでしょうか。そうではなく、むしろ、この食事にあずかるもの の自覚と責任を問う厳かな食事という性格から来ているのでしょう。大いなる自由を与 えられた者が、どのように今の自分を振り返り、またそれぞれの責任を果たすかが問わ れるような食事だったからです。 聖餐と過ぎ越しの食事は違いますが、しかし、ここ から教会を形成する基本の原理の一端を学ぶことができます。