7月03日
2005年7月3日

「初子は主のもの」

出エジプト記13:1〜16;テサロニケの信徒への手紙一4:1〜12


 出エジプト記13章は、「過越祭」のときに酵母を入れないパンを食べなければなら

ない、ということと、人であれ家畜であれ、初めて母胎を開く初子は神のものであるか

ら神にささげるか、その代わりにあがないの供え物をしなければならないという定めが

記されています。いかにもユダヤ的な習慣が語られていて、そのような習慣の中に生き

ていないわたしたちには退屈な感じがします。出エジプトという大いなる歴史的な出来

事の中に、このような祭儀規定が入ってくる記述の仕方にも違和感を覚えます。しかし、

このような描き方をしている仕組みのことを考えると、興味深いことに気づかされます。

ここで記されている物語の大きな流れは、「まさにこの日に、主はイスラエルの人々を

部隊ごとにエジプトの国から導き出された」という過去の出来事を伝えることです。と

ころが、ここでは、記者の目は、過去に向かっているのではなく、将来に向かっていま

す。アビブの月の7日間種入れぬパンを食べるのは、「主があなたがたに与えると先祖

に誓われた父と蜜の流れる地・・・に導き入れられた時」のことですし、また、すべて

の初子をささげるのも、「主があなたを・・・カナン人の土地に導き入れ、それを与え

られるとき」のことです。さらに、このような儀式を行う目的は、将来の社会の担い手

である「こども」です。おいしくない固いパンを7日間も食べる中で、また、大切な初

子をあえてささげることによって、子どもの中に「これにはどういう意味があるの」と

問いを起こさせ、そこから、「主が力強い御手を持ってあなたをエジプトから、奴隷の

家から導き出してくださった」という共同体が出発した原点である大切な歴史を伝える

のです。したがって、種無しのパンを食べることや初子をささげるという日常性とはか

け離れた重々しいまつりごとは、それ自体が目的ではなく、神の力強い御手を覚えるた

めの手段です。「記念する」、「記憶のしるしとする」、「覚えとする」ために、あえ

てこのような不思議なことをするのです。歴史を「祭儀化」することによって「歴史の

現在化」をはかること、さらに、この信仰を将来にわたって継承する仕組みなのです。

これは、「歴史の風化」をふせぐ極めて高度な知恵というべきでしょう。

 しかし、このようなまつりごとを行うのは、ただ歴史の風化を防ぐ人間の社会の知恵

というにとどまらず、ここにイスラエルの信仰のありかたがよく表わされていると考え

ることができます。イスラエルの礼拝は、歴史の中で働かれた神の御手を、繰り返し礼

拝の中で物語り、おぼえることによって、今生きて働いておられる神を経験しているの

です。種なしのパンが食べられ、初子がささげられるとき、そのとき過去の歴史を現在

化するだけでなく、生きた神との交わりが回復され、今、自分たちも神の力強い御手の

中にいることが、実子どもたちの心にも実感され、それが、また次の世代に受け継がれ

てゆくのです。このようにして、「祭儀が、絶えず新しい世代に神の救済を与える手段

として働く」(フレッとハイム)という事態がいつも起こることになります。

 キリスト教会が、礼拝のたびごとに主の物語を聞き、主の晩餐を繰り返しているのも、

イスラエルの信仰、神との交わりの持ち方を継承していることです。 


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