出エジプト記13:17〜22 使徒言行録18:1〜11
出エジプト記は、13:17から新たな歴史が始まります。これまでは主なる神に遣 わされたモーセとアロンによってファラオと息詰まる対決、そして、それにともなう1 0度の災いを通して神の力強い御手が示されました。この救いは、「過ぎ越し」をキイ ワードとする救いです。イスラエルの子らは主の救いが行われるのを、いわば傍観者と して経験しているだけです。ここからは、しかし、イスラエルの子らはエジプトを発っ て、乳と蜜の流れる地、約束の地に向かって「荒れ野の道」を自分の足で行かなければ なりません。ここで示される主の力強い御手、救いの本質は「火の柱、雲の柱」で言い 表されます。主がいつも先立って行く道を示され、導かれるのです。 イスラエルの子らが荒れ野の道を行くことになったことについて、「神はフェリシテ 街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならないと知って後悔 し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと思われたからである。神は民を葦の海に通 じる道に迂回させられた」と記しています。フェリシテ街道を行けば7日間の旅、しか し、荒れ野の道は、結局40年間かかりました。この大いなる回り道、しかも、荒れ野 の道をこの大集団が旅をすることは、絶えず死と生との瀬戸際を行くような危険がある ことを意味します。この迂回路を取ったのは、人間の迷いの故でも、また無知の故でも なく、ほかならぬ神がその道を取らせたというのです。「荒れ野の道」、「人生の回り 道」と言う言葉は、わたしたちの人生のことを考えさせ、何か胸を打つものがあるのを 感じます。神は人生の荒れ野、迂回路を歩むわたしたちにも、イスラエルの子らと共に 出エジプトの旅を続けるように招いています。確かに、わたしたちはこれから何度とな く「エジプトの肉鍋」を恋しがるイスラエルの子らのつぶやきを聞きながら旅を続ける ことになりますが、しかし、いつも、このつぶやきは神の力強い御手によって打ち砕か れ、先に向かって進んで行くのです。神が荒れ野の道、迂回路へとイスラエルの子らを 導いたのは、神の救いと導きが、ただエジプトからカナンへと場所を移動させるだけの 救い、土地と住むべき家と、自由な者として生きることへの救いではなく、その救いは、 もっと深く、イスラエルの子らを真の神の民とするための導きであり、救いであったこ とを悟らされます。