7月10日
2005年7月10日

「火の柱、雲の柱 」

出エジプト記13:17〜22 使徒言行録18:1〜11


 出エジプト記は、13:17から新たな歴史が始まります。これまでは主なる神に遣

わされたモーセとアロンによってファラオと息詰まる対決、そして、それにともなう1

0度の災いを通して神の力強い御手が示されました。この救いは、「過ぎ越し」をキイ

ワードとする救いです。イスラエルの子らは主の救いが行われるのを、いわば傍観者と

して経験しているだけです。ここからは、しかし、イスラエルの子らはエジプトを発っ

て、乳と蜜の流れる地、約束の地に向かって「荒れ野の道」を自分の足で行かなければ

なりません。ここで示される主の力強い御手、救いの本質は「火の柱、雲の柱」で言い

表されます。主がいつも先立って行く道を示され、導かれるのです。

 イスラエルの子らが荒れ野の道を行くことになったことについて、「神はフェリシテ

街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならないと知って後悔

し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと思われたからである。神は民を葦の海に通

じる道に迂回させられた」と記しています。フェリシテ街道を行けば7日間の旅、しか

し、荒れ野の道は、結局40年間かかりました。この大いなる回り道、しかも、荒れ野

の道をこの大集団が旅をすることは、絶えず死と生との瀬戸際を行くような危険がある

ことを意味します。この迂回路を取ったのは、人間の迷いの故でも、また無知の故でも

なく、ほかならぬ神がその道を取らせたというのです。「荒れ野の道」、「人生の回り

道」と言う言葉は、わたしたちの人生のことを考えさせ、何か胸を打つものがあるのを

感じます。神は人生の荒れ野、迂回路を歩むわたしたちにも、イスラエルの子らと共に

出エジプトの旅を続けるように招いています。確かに、わたしたちはこれから何度とな

く「エジプトの肉鍋」を恋しがるイスラエルの子らのつぶやきを聞きながら旅を続ける

ことになりますが、しかし、いつも、このつぶやきは神の力強い御手によって打ち砕か

れ、先に向かって進んで行くのです。神が荒れ野の道、迂回路へとイスラエルの子らを

導いたのは、神の救いと導きが、ただエジプトからカナンへと場所を移動させるだけの

救い、土地と住むべき家と、自由な者として生きることへの救いではなく、その救いは、

もっと深く、イスラエルの子らを真の神の民とするための導きであり、救いであったこ

とを悟らされます。


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