出エジプト記14:1〜14;マルコ4:35〜41
エジプトを出て「自由への大いなる歩みを始めたイスラエルの民は、絶体絶命の危機 に直面します。ファラオが、またもや心をかたくなにしてエジプトの全軍を率いて追跡 してきたからです。後方はエジプトの騎兵と戦車、歩兵の大群、前方は、茫漠たる海・ ・・。ここで「紅海渡渉」として知られる有名な物語がはじまります。主の力強い御手 を待ち望む時、古今の信仰者がおもい起こすこの物語は、ここでも語り手の視点は二重 構造です。天上から見た出来事と地上での出来事、この二つが同時進行しています。エ ジプト王の絶対的な権力と意志、イスラエルの子らの危機、それは、天上の目から見れ ば、主なる神によって仕組まれた「わな」のようなもの。ファラオの心をかたくなにす るのは主、抵抗の最後、そして、主の栄光が表わされる仕掛けに過ぎません。地上に生 きるわたしたちも、この仕掛けがよく見えるようになるといいのですが・・・。 ここで、ファラオがまたもや「心をかたくなにした」のは、「民が逃亡した」との報 告を受けてからであった、と記されていることに注目したいと思います。人の心のかた くなさ、それは、確固不動の揺るがざる心などではありません。かつて、ファラオはみ ずからの初子を失い、エジプト中の長子を失ったとき、「行って主に仕えるがよい。わ たしのためにも祝福を祈ってほしい」とモーセに懇願したのでした。しかし、「逃亡し た」の一言で、違う世界が見え始めているのです。「かたくなさ」とは、主の生きた現 実に触れながら、その現実に誠実にとどまり続けることができない弱さの現れであるに 過ぎません。イスラエルの人々の叫び、「われわれを連れ出したのは、エジプトに墓が ないからですか」も同質の不真実を表わしています。恵みを単に「幸運」としか受けと っていないのです。主を見ていないのです。この人間の弱さの中で、主が戦われます。