出エジプト記14:15-31;コリントの信徒への手紙T10:1-10
前方は海、後方は追い迫るエジプトの軍隊、絶体絶命の状況に追い込まれたイスラエ ルに対して、「落ち着いて主が戦われるのを見よ」と告げられました。主は、どのよう に戦われたのか、その出来事は、すでによく知られています。海を二つに分け、壁のよ うに右と左に立ち上がらせ、真ん中に乾いた道をつくってイスラエルの子らを通らせま す。火と雲の柱は後ろに移動して両陣営を引き離し、真っ黒な闇、激しくとどろく雷鳴、 夜もすがら吹きすさぶ東風、そして再び海は元に戻り、エジプトの軍隊は海の中に潰え 去ります。人間が権力の限りをつくした戦力と自然の力を総動員した万軍の神との闘い です。かたや壁となって道をつくってくれる水は、他方には呑みつくし滅びを与えるも の、深い闇とそれを貫く光はイスラエルを隠しエジプトを恐怖に陥れます。人間が経験 する絶体絶命、混沌の渦は、このようにして、主の力が示され、救いの道が開かれると ころとなっています。自然と歴史の中で示されたこの神の救いに、どれほど古今の信仰 者がここから深い学びと励ましを与えられたことでしょう。 この救いの出来事から、いくつかの問いを思いめぐらしてみましょう。海を二つに分 けるという信じがたい奇跡は、人々の叫びと祈りに応えて、神が起こされたことなので しょうか。その答えは「否」です。イスラエルの子らを荒れ野の道に迂回させられたの は神であり、エジプトの王ファラオの心をかたくなにされたのは神であって、この絶体 絶命の危機を神が救われるのは当然ともいえるからです。だとすれば、彼らが叫び祈る 意味はあるのでしょうか。彼らが大きな恐れと不安の中から、みずからの不信仰を露呈 しつつ叫び祈ったこと、そして、目の前で展開される主の救いを見たことは意味のある ことだったでしょう。それは、主なる神にとって意味のあることではなく、イスラエル にとって、その事態を恵みと受け止めるために、意味のあることとなったはずです。 第二の問い、ここでモーセの果たした役割は、どのように位置づけることができるで しょうか。モーセのような超人的な存在がなければ、主の救いは果たされないのでしょ うか。答えは、「Yes」&「No」です。モーセは何ら超人的な働きはしていません。 ただ、主の言葉を聞き、それに従った「僕」であるに過ぎません。しかし、主は、その モーセを必要とし、モーセによって、大いなる奇跡を表わされるのです。