8月14日
2005年8月14日

「主はわたしの力」

出エジプト記15:1-21;マタイによる福音書14:21-33


「主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込ま

れた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。」

モーセとイスラエルの子らは、海を二つに分けて彼らを通らせ、また海を元に戻してエ

ジプトの軍勢を覆い尽くし、滅ぼしつくした主を、声を限りに讃美しています。讃美と

は、奇跡的な出来事を物語るだけではありません。救いの事実に直面して、心の底から

の信仰の応答がなされることです。出来事が信仰の目で再解釈され、この言葉が代々に

受け継がれ、子々孫々につげ知らされるのです。

 紅海を渡ることで経験した、驚くべき主の救い、感動を想像するとき、ここに歌われ

ている言葉は掛け値なしのものでしょう。しかし、このような「戦勝」を経験した者が

歌う讃美、信仰告白は、きわめて危険な境域に信仰者を近づけていることにも、注意を

向けたいと思います。「主はわたしの力、わたしの歌、わたしの救い」と、「主」と「

わたし」とがこのように結びついていること、「主は戦いの人」とさえ言われて、敵と

の戦いの中で「わたし」を勝利させてくださる神をたたえることは人に許されることで

しょうか。主の右の手が敵の軍勢を「石のように深淵に投げ込まれ、わらのように焼き

尽くし、水の中に鉛のように沈む」ことを、勝ち誇って喜ぶことは健全な精神と言える

でしょうか。このようなわたしの神を誇る人々の背後に、どれほどの悲惨があることか。

  このように裏側からこの詩を読む時、ここに出てくる「わたし」がどのような「わ

たし」であるかをよく見なければなりません。「主はわたしの力」と、「わたし」が語

られるに先立って、エジプト人の「わたし」があります。「わたしは追いかけよう。わ

たしは捕らえよう。わたしは分捕り物を分けよう。わたしは奪い取ろう・・・」。この

「わたし」の前に、イスラエルの子らは、ただ泣き叫ぶばかりでした。しかし、勝ち誇

るエジプト人の「わたし」に対して、主が右手を伸ばされることによって、無きに等し

い「わたし」は、救われたのでした。信仰者が「主はわたしの力」と主を誇ることがで

きるのは、このような状況です。わたしの力を倍増させて救ってくださったのではなく、

主の一方的な恵みがわたしを救ったのです。ここには強者の暴力を支援する神が語られ

ているのではありません。         


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