出エジプト記16:1-12;ヨハネによる福音書6:27-33
荒れ野を旅するイスラエルの共同体は、豊かな水とナツメヤシに囲まれたオアシスの 地江リムから再び不毛の地シンの荒れ野へ。ここで、また大きな危機に直面します。食 料が尽きたのです。そして、またもやモーセとアロンに向かって不平を言います。「わ れわれはエジプトの国で主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさ ん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに、あなたたちはわれわれを荒 れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」エジプトから持ってき た粉もつき、どんな食糧の収穫することもできず、買うこともできない荒れ野を旅する 大集団のこのつぶやきが、どれほど現実的で、また、深刻なものであるかは、だれの目 にも明らかです。しかし、よく聞いてみると、この共同体が直面しているのは、食糧の 危機であるだけでなく、信仰の危機、すなわち、神との関係の危機でもあることが分か ります。彼らの目は、現実の危機をみずからの責任として引き受け、共に祈り、連帯し て打開に当たるという健全な精神から堕ちています。過去の安楽さを憧憬し、問題を他 者の責任にし、そして、みずから死を願っている、これはまさに病める精神です。それ は、自分を悩ませ、他者を傷つけます。その不健全な心はどこから来ているか、それも 明らかです。主の力強い御手を経験したこの共同体が、そのみ手の働きを,ただその場 限りの救いとして受け取るだけで、主の御心そのものとしっかりとつながっていないか らです。忘恩、不信仰の罪です。 この民に対して、主なる神は、裁きではなく、憐れみをもってのぞまれます。「夕暮 れにはあなたたちは主があなたたちをエジプトの国から導き出したことを知り、朝に主 の栄光を見る」・・・「夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。」有名な マナの奇跡がここから始まります。 「夕暮れには・・・朝には」と言う独特の表現を通して、わたしたちは創世記のはじ めを思い起こします。混沌と闇と暴風の世界に「光あれ」との主の言葉に始まって、 「夕となり朝となって」創造の一日一日が続き、世界が7日間で完成した、あの日のこ とです。荒れ野の一日一日は、命の尽きるところではなく、神の創造のみわざにあずか る一日一日。そこでは、朝が来て夕になり、また朝になる無機質な時の流れがあるので はなく、無から有を生み出し、命を造り、支える神の創造のみわざがその中に満ちてい る時にあずかります。