9月11日
2005年9月11日

「日々の食物と安息日の食物」

出エジプト記16:13-36;マルコによる福音書8:14-21


「馬と乗り手を海に投げ込まれた」と歌って勝利を祝ったイスラエルの民の旅は、そこ

で終わったのではありません。「シュルの荒れ野に向かって三日の旅をしたが、水を得

なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。」荒れ野を旅

する大集団にとって、日々の糧と命の水はなくてはならぬものです。その水の問題にぶ

つかって早くもその旅は危機に陥っています。イスラエルのカナンに向かう旅は、キリ

スト者の生涯の歩みと重なります。主イエス・キリストの死にあずかるバプテスマによ

って、水を通って新しい生活を始めたわたしたちも、また、直ちに神の国に入るのでは

なく、荒れ野の道をたどりながら約束後に向かって歩みを続けます。その歩みの中で、

わたしたちは今日のパン、今、渇きを癒す水がなければなりません。それ故に、主イエ

スはわたし達に,「日用の糧を与えたまえ」と絶えず祈るように教えられたのです。

  さて、極度の渇きに悩まされた末に、やっとたどり着いたはてはマラ、苦い水、こ

の事態にイスラエルの人々はモーセにむかって不平を言います。「何を飲んだらいいの

か。」 この不平はよく分かります。しかし、なぜ、モーに向かってこのように言うの

でしょうか。どうして、モーセと共に知恵を尽くし、情報を集め、主に向かって祈らな

いのでしょうか。目前の危機に直面した時に陥る典型的な不信仰の罪がここにも顔を出

しています。共通の問題を共に認識して、連帯して取り組むのではなく、誰かの問題に

して、誰かの責任にするのです。自由を売り渡す者、独裁者が生れる温床です。主に仕

える共同体として形成されてゆくはずのこの荒れ野を旅するイスラエルは、危機に直面

するたびに、共同体として成長するより、むしろ隷属する民に逆戻りすることを繰り返

します。

 苦い水の問題を解決する手段は、簡単なことでした。主が示された木を水に投げ込む

と、水は甘くなったのです。しかし、もっと根本的なこと、苦き水のゆえに渇く民を癒

すために、主が与えられた癒しの手立てがあったことを聖書は伝えています。「そのと

ころで、主は彼に掟と法を与え、そこで彼らを試みられた」と記されています。荒れ野

を旅する民が真の主の教会として形成されるために、ただ主の奇跡を感動するだけでな

く、掟と法において自らを試みる、そのような手立てが示されているのです。


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