9月18日
2005年9月18日

「安息日の食卓」

出エジプト記16:22-36;ヨハネによる福音書6:27-40


 荒れ野を旅するイスラエルは、天から与えられた「マナ」に養われて、旅を続けるこ

とができました。ところが、天からのマナは、6日目には倍の量が与えられ、7日目に

は何も与えられないという7日をサイクルとするリズムがあったと言う不思議なことが

聖書に示されています。安息日にはマナは与えられなかったので、6日目は倍の量を集

めて、翌日のために備えておかなければなりませんでした。安息日の定めは、シナイ山

で十戒を授かった時はじめて出てきたものではなく、すでにここで生活の中に定位され

ていることに驚かされます。安息日の意義をマナとの関連で考えることによって、また

独特の視野が広がってくるのに気づかされます。安息日は、安定した定住の生活の中で

生活に変化をもたらすため、あるいは、人々の心を神に向かわせるために工夫された装

置のようなものではありません。一日一日天からのマナによってその日の糧を得てかろ

うじて生命を維持し養われている荒れ野を旅するイスラエルの民の中で、7日ごとに一

日休まなければならない日があるということ、これはなんという不思議なことでしょう。

人々は、マナが与えられない日があることを通して、「マナ、これは何?」と問う機会

が与えられているということです。仕事をすること、休むことの意義を根本から問い直

す機会が与えられています。

安息日について、モーセはこれを「主の安息日」とか、「主の聖なる安息日」と言って

います。これは「わたしたちの安息日」「私たちのための安息日」ではないのです。人

間は休みを必要としています。疲れを癒すために。束縛から解放されるために。生活に

変化をもたらすために。心に余裕を取り戻すために。しかし、7日毎の安息日は、わた

したちの必要に合わせたものとしてあるのではなく、主のためにあるのであり、その日

を、主が休まれるのに合わせて、わたしたちに与えてくださったものです。この順序が、

しばしばわたしたちの間では逆転し、転倒していますが、主なる神の天地創造のときよ

りある、このリズムに心とからだを合わせることによって、世界は確実に、創造の日の

ように「はなはだよい」ものとしての姿を回復します。

 日曜日、主イエス・キリストの復活の日、新しい創造の第一日、わたしたちは仕事を

休んで共に礼拝をします。命のパンをいただくために。こうして、この世界を造られた

主なる神の創造のリズムに心とからだを合わせているのです。      


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