199800510
1998年5月10日

「自分を愛する愛で充分か」

マタイによる福音書5章45−48


 母の日は人間の愛の性格について考えることが多い日です。人はだれも自分が愛

され必要とされていると感じることができなければ生きることはできません。あり

のままの自分をそのまま受け入れてくれる者があってこそ生きる力が湧いてきます

し、それがなければわたしたちの生は限りなく墜ちていきます。わたしたちの多く

はこのような無条件の愛、優しく献身的な愛を母親を通して経験していますが、そ

れは必ずしも一般的ではありません。虐待する母から子どもを引き離さなければな

らない場合もあります。母性そのものが真の愛によって受け入れられ、土台を与え

られていなければ、極めて不安定なものだということは日々の経験でだれも気づい

ています。

 主イエス・キリストの「あなたの敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。こ

うしてあなた方の天の父の子となるためである」ということば、この言葉に直面す

ることができますか。「わたしたちの天の父」を知った者は、「隣人を愛し、敵を

憎め」という程度の愛では不十分だと感じるはずだ。自分を愛してくれるかどうか、

相手の出方次第で自分の愛の程度を加減するような愛に満足することはできないは

ずだ。あなた方の天の父が善い者の上にも悪い者の上にも太陽を昇らせ、正しい者

にも正しくない者にも雨を降らせてくださるように、あなた方もそのように愛さな

ければならない。このように語られる主イエスも正しいわたしたちのためにではな

ぅ、罪人の不信心で不敬虔なわたしために十字架にかかってわたしの罪のための犠

牲となってくださったのです。このような公平な愛、無私なもの、無条件のもの、

自己犠牲的なもの、命がけであるもの、それが本当の愛であることはだれも受け入

れることができます。だれもこのような愛を求めずにはおれません。しかし、この

ように愛しなさいと言われるとわたしたちはひるむのです。主イエスは不可能なこ

とをお求めになっていると抗議するのです。

 少なくとも、主の愛への誘いの言葉によって、与えられている愛と与えようとし

している愛の圧倒的なギャップに気づかされます。わたしたちがどのような愛によ

って生かされてきたか、与えられているものの大きさに少しでもふれるとき、わた

したちの愛の性質に深い反省が加えられ、その枠をいささかでも広げることができ

ます。神のキリストにおける愛はそのようにわたしたちの心を動かして、わたした

ちの中に愛の働きを広げるのです。
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