10月2日
2005年10月2日

「岩 を 打 て」

出エジプト記17:1-7;マタイによる福音書4:4-11


 またしても、危機です。今度は渇きの危機、荒れ野を旅する大集団の宿営地には水が

ありません。その危機は直ちにイスラエルの民とモーセとの対決、争いに発展し、神を

試みる争いにまでいたっています。マサとメリバ、旧約の歴史の中でも深く人々の心に

刻み込まれたこの時の経験は、岩を打ち、岩から水が流れ出たという奇跡だけでなく、

主を試みた出来事として忘れがたいものになっています。この水のない地に導いたのは、

主なる神です。主の導きに従って進む道にも、このような危険が含まれていることは驚

くべきことですが、これが主の試みです。そして、ここでは「主の試み」が、ただちに

「主を試みる」ことに発展している様を、よく見なければなりません。

「われわれに飲み水を与えよ。」「なぜわれわれをエジプトから導き上ったのか。私も

子どもたちも、家畜も渇きで殺すためなのか。」モーセに対する民の要求と不平の鋭さ

と直截さは、どうでしょう。危機に際して人が人に要求する限度を超え、また、人と人

との間にあるべき思いやりは微塵もありません。危機は、このように本来力を合わせな

ければならないところで、怒りと不安を誰かのせいにし、それによって分裂と争いを引

き起こし、本来取り組むべき対象を忘れて目の前の仲間と争うことに全エネルギーを注

ぎます。この悲しむべき、笑うべき事態に陥ることから、世界は未だ救いの道を見出し

ていません。この愚かしい争いの原因は、神の救いを未だ経験したことのない民である

ゆえではなく、むしろ、これまで十分すぎるほどに神の救いを経験したがゆえの争い、

信仰者特有の試み、というべきではないでしょうか。主の救いと恵みの経験そのものが、

彼らを自立しない、無責任な人頼みを助長しているのではないでしょうか。主の救いを、

ただその場限りの危機の除去にのみ目をむけ、救いの根底にある主の心そのものに触れ

ようとしないとき、危機のたびに風のように揺れ動き、危機を倍増させます。

 「主の試み」が「主を試みる」ことに転げ落ちるとき、主は、岩の上に立ち、岩を打

て、と命じられます。岩は、新約聖書ではキリストです。キリストに向かって、全身全

霊を打ち付けることによって、生きた水がほとばしり出て渇きを癒すばかりでなく、多

くの人を潤す者となるのです。


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