出エジプト記17:8-13;ヨハネ黙示録 5:6-12
レフィデムという荒れ野の地は、マサとメリバによって知られると共に、もう一つの 良く知られた出来事によっても記憶されます。アマレクとの闘いがあり、そこで、モー セが丘の上で神の杖をもって高く手を上げ続けることによって勝利した、あの出来事で す。「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすとアマレクが 優勢になった」という言葉から、キリスト者のとりなしの祈りの意義がよく語られると ころです。 この物語で興味深いところは、アマレクとの戦いにおいて、闘いの去就を握っている のは、肉弾相打つ闘いの場そのものではなく、戦場とは離れた場所、しかも、モーセの 手の上げ下ろしという、一見闘いとは全く関係のない行為によってであるということで す。モーセは、これまでイスラエルをエジプトから導き出し、紅海を渡り、荒れ野を旅 してきたときに占めていた場所とは全く違うところにいます。戦いのさなかに、丘の頂 に立って、手を上に上げている、このような無意味に見える行為をしているのです。イ スラエルの全軍に勇気を与え、鼓舞するために、そのようなパフォーマンスをしている のでしょうか。そうではないでしょう。モーセの高くあげられた手、それは、主に向か って上げられ、大きくひろげられた手は、天と地を創造された主、エジプトの奴隷の家 から数々の不思議を示して、み手をもって導き出してくださった主に向かって広げられ ています。モーセの高く上げた手と大きく広げられた手と主のみ手が結び合わせられる ところに、目の前に繰り広げられている人間の戦いの現実、飢えや渇きの現実、すべて が包み込まれていることを、モーセは知っているのです。主の高くあげられた手、大き くひろげられた手とモーセの手が合わせられる中に、世界のすべてが包み込まれている。 この交わりが世界を包み、世界を動かす決定的な場、わたしたちの命は、ここで立ちも し倒れもする、とモーセは知っているのです。モーセだけでなく、戦場で戦うヨシュア も、また、疲れて重くなった手を日の沈むまで両脇で支え続けたアロンやフルも、その ことを知っている。キリスト者は、十字架の上で両手を高く上げてとりなしの祈りをし てくださる主イエス・キリストの姿を思い起こします。