5月11日
1997年5月11日

「マルタとマリア」

ルカによる福音書10章38−42


 イエスをお迎えして忙しく立ち働いているマルタ、イエスの足下にべったり座り

込んでイエスの話に聞き入っているマリア。この対照的な姉妹の姿は、まことに身

近で、どこにでも見いだされます。主イエスがいらだっているマルタに、「マルタ

よ、マルタよ」と語りかけられたのは、マルタのように物質的・外見的なことに忙

しくしている人を軽んじ、マリアのように人間的・霊的なことに没頭する人を大事

にされたということではありません。この話をよく注意して読むと、これはマルタ

とマリアの話ではなくてマルタの話です。わたしたちの内なるマルタに対して呼び

かけられている話です。

 マルタのイエスをお迎えする態度には一貫したものがあります。「いろいろのも

てなしのためにせわしなく立ち働いていた」(40節)、「わたしだけにもてなしをさ

せています」(40節)、「多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)、これら

の中にあるキイワ−ドは「多く」と「一つのこと」です。カルヴァンは、キリスト

はマルタの中に二つの誤りを見いだしているといって、「あまりにも多くのことを

やりすぎて過剰になっていること」と「キリストを置き去りにして、自分が大切だ

と思うことに思いかまけ、せっかくの時を無駄にしていること」をあげ、さらに、

「もう一つ付け加えると、彼女は自分が忙しくしていることによって、自分が絶対

正しいことをしていると考えて、マリアが敬虔な思いで学ぼうとしていることを軽

く扱い、軽蔑していることである」と解説しています。カルヴァンの観察は非常に

正確に言葉のニュアンスをくみ取っています。

 マルタの責任感、たくさんのよい思い、親切な心、これも大事、あれも大事と気

も狂いそうに忙しくしている様はわたしたちの姿ではないでしょうか。主が立ち寄

ってくださるとき、「重荷を負うて苦労している人はわたしのもとに来なさい、と

語りたもう主が訪れてくださっているとき、永遠の命にあづかる究極の時がいまこ

こにあるとき、これほど近く主にふれるときが与えられているとき、たくさんの大

事さのために、イエスに向かって「もっと忙しくしてください」と頼む滑稽さ。

これはわたしたちの奉仕が陥っている姿でもあるようです。「マルタよ、マルタよ」

と呼びかける主イエスの声は冷たいものではありません。「重荷を負う者は、わた

しのもとに来なさい」という方の声です。わたしたちの心にも、この声を聞くこと

ができるならば、いらだちから解放されて、寛くものを見ることができるでしょう。
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