11月13日
2005年11月13日

「三日目のために備えせよ」

出エジプト記19:10-20;ヨハネによる福音書12:20-26


 トーラーの中のトーラーを学ぶところにさしかかっています。わたしたちはキリスト

者として旧約の律法を聞くとき、これが主イエスの時代の律法主義者によってどれほど

人間をゆがめていたかを知っています。律法は福音と対立的なものであることは否定で

きないのです。しかし、キリスト者が、過去2000年にわたってユダヤ人に対してどのよ

うなことをしてきたかを反省すると、どうみてもそれはキリストの福音が指し示すこと

とは違うことです。キリスト教の歴史において律法を受け止める受け止め方は、独特の

バイアスがかかっていて、正しく受け止めているとはいえないところがあると思います。

私たちが十戒を学ぶ時、律法主義者のバイアスからも、また、キリスト教会の偏狭さか

らも自由になることを願いつつ、シナイ山で与えられた戒めの本質は何かを学びたいと

思います。

 そのために、十戒がどのような文脈で語られているかを注意深く見ることが大切です。

十戒が語られている20章に先立って、19章ではシナイ山のふもとで神からの戒めをいた

だく聖なる時のために、どのような準備の時が持たれたかが記されています。三つの時

があります。神からの招きの言葉を聞くとき(3〜6節)これには民の応答の言葉が続き

ます(7〜8節)。

 次に、三日後の聖なる時のために衣服を洗い、境界領域を定めて備える時があります。

そして、第三の時、「雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響く・・・

モーセが語りかけると神は雷鳴をもって答えられる」、まさに、旧約聖書の中でも類ま

れな神顕現の様が語られ、民は震えおののきます。ところが、この自然を通して神がご

自身の存在を現される、恐るべき時がクライマックスではありません。これは準備の時

で、その後に聖なる言葉を聞くときがはじまっています。これが十戒です。このような

神との交わりのあり方を見る時、これは、私たちが今行っている礼拝と同じ構造になっ

ていることに気づかされます。たしかに、シナイ山での契約,十戒の授与の出来事を礼

拝のコンテキストで読むことは、律法の本質を知る正しいアプローチになるでしょう。


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