12月4日
2005年12月4日

「真の自由を得るために」

出エジプト記20:1-21;ガラテヤの信徒への手紙5:13-15


 十戒の戒めの第一に来るのは「あなたには、わたしをおいて他に神々があってはなら

ない」です。「わたしをおいて」と言う言葉は、「わたしのほかに」、「わたしを超え

て」、「わたしを無視して」、「わたしの顔の前に」とさまざまに訳すことができます

が、要するに、主ヤハウェとイスラエルの関係の中に他の神々の介在をゆるさないとい

うことです。他の神々とは、「古代世界で身近に感じられる死霊、護符などの類」から、

後にカナンの土着の豊穣多産を保証する神々を意味するようになりました。旧約聖書の

中でこの戒めは、「他の神々に犠牲をささげること」、「他の神々の名を唱えること」、

「預言者や夢占いをする者に耳を傾けること」などを禁じることにつながっています。

排他的な唯一神教を主張すると言うことではありません。イスラエルの人々をエジプト

の地、奴隷の家から導き出された神が、再び奴隷の生活に戻らないように、神の強い決

意、真の自由に至る道を示すために、「信頼に満ちた期待の言葉」が告げられているの

です。神の存在様式ではなく、私たちの神との関係の持ち方が教えられています。した

がって、ルターが小教理問答で教えているように、「私たちは、どんなものよりも神さ

まを畏れ、愛し、信頼するものだ」ということがこの戒めの真意です。

 私たちが畏れ、愛し、信頼すべきものは、天地を創造し、わたしたちの命のはじめで

あり、終わりである神、奴隷の家から解放し、主イエス・キリストにおいて罪をあがな

って神と人との和解を造ってくださる方以外のものではないと信じ、その関係の中で生

き抜くことは、他の一神教の神と対決することではありません。神の唯一性を信じると

いうことは、あらゆるものがこの神のもとで「生き、動き、存在する」こと、あらゆる

多様性、差異性、個別性がこの神のもとに包まれると信じるのですから、この神のもと

で一つとなる道をへりくだって探し求めなければなりません。征服欲や支配欲、自家製

の神を造り、おのれを神とする欲望、現代の世界を覆っているこの思想こそ、最もこの

戒めから遠いものです。


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