5月18日
1997年5月18日

「後ろのものを忘れ、前のものに向かって体をのばしつつ」

創世記19章1−29


 ソドムとゴモラは神にも届く叫び、罪の故に天から硫黄と火とが降り注ぎ全滅し

た町として有名です。どのような罪の故に滅ぼされたのか。通説のように「同性愛

の故」というのははっきりしません。むしろ客人として招かれている人に対する粗

暴な振る舞いのほうが前面にあるべきでしょう。正義を忘れ、自分の安定と欲望の

ためならどのようにも粗暴になれるような町は、確かに滅ぼされます。

 しかし、ここで特に注目したいのはソドムの罪というより、ソドムから救出され

たロトとその妻のことです。ロトはソドムの他の人のようではなく、旅人にも親切

でまた一旦客人として引き受けた人は命がけで守ろうとする勇気の人です。しかし、

いよいよ滅びが目前になり「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて

行きなさい」といわれると「ロトはためらっていた」と記されていますし、また命

がけで山に逃れよといわれると、「主よできません・・・おそらく災害に巻き込ま

れて、死んでしまうでしょう。御覧ください、あの町を・・・あれはほんの小さい

町です。どうかそこでわたしの命を救ってください」と言っています。主が御手を

とって最も安全なところに導いてくださろうというのに、自分でダメだと思って、

自分で安全だと思うところを指定して、自分の救いを確保しようとしています。過

去を捨てることができないのでしょうか。現在のものに心を残しているのでしょう

か。差し迫っている終わりを前にぐずぐずしています。ロトの逃げる町ゾアルは「

小さい」と言う意味ですがそれは町の規模だけでなくロトの信仰の程度も現してい

ます。全面的に主に委ね、主の導きにあずかろうとしない信仰であるから、ゾアル、

小さくなるのです。その信仰の象徴的な姿は、ロトの妻の後ろを振り向いて塩の柱

になった姿です。生き生きとした命の源に連なることをみずから制限しているので、

しだいに硬化が全身に広がり動けなくなっていくのです。

 これと全く対照的な信仰者のことばがあります。主イエス・キリストを知る知識

の絶大な価値を知ったパウロの言葉です。「わたし自身はすでに捉えたとは思って

いません。なすべきことはただ一つ。後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつ

つ、神がキリストによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指

してひたすら走る」(フィリピ3:13−14)。ここにはつきることのない命と

喜びと希望があります。
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