5月25日
1997年5月25日

「さすらいの旅人」

創世記20章1−18


 信仰の父アブラハムは、またもや大いなる恥辱を繰り返しています。自分の妻を

妹と偽って、王のもとに召し入れさせているのです。アブラハムの地上の旅は神に

よって選ばれたものの栄光ある旅であるはずです。この歩みによって全人類が祝福

を受けることになるような旅です。しかし、現実に旅をしている最中は「自由への

大いなる歩み」などではなくて、「神がわたしを離してさすらいの旅に出されたと

き」(13節)と語るように、心細く不安に満ち、誘惑に対して抵抗力のないもの

でした。この「さすらいの旅」がみ国にむかう凱旋の旅になってくるためには、特

別な訓練が必要です。

 ゲラルの王アビメレク、この神を畏れることを知らないはずの王の言動を通して

アブラハムに信仰の覚醒を与えているのです。ここでは神はアブラハムと話してい

るのではなくアビメレクと話しています。神はサラを妻として迎えたアビメレクの

正当性を認めています。アブラハムとアビメレクの対話を読むと、ここではアビメ

レクの公正さと誠実さ、寛大さばかりが目立ちます。卑怯にも王を欺き、妻を女と

して差し出す卑しいアブラハムの心が浮き彫りにされます。アブラハムの言い訳の

中で注目すべき言葉があります。「この土地には、神を畏れることが全くないので、

わたしは妻の故に殺されると思ったのです。」と。アブラハムの卑怯で偽りに満ち

た行為は、一つの「信仰的な」行為であったのです。「わたしは神を畏れている」、

「わたしは神の前で正しいことがなんであるかを知っている」ということが、「こ

の土地では神を畏れることがない」という判断を導き出したはずです。そして、「

神を畏れている」という信仰は、現実の生活の中では、神を畏れることのない人々

の基準に合わせているのです。自分の命だけを守るために。信仰を自分の中である

一つの領域の中だけに限定して、全体的にはエゴイスティックに振る舞っているの

です。現実には、アビメレクはアブラハム以上に神を畏れ、神の前での正しさがな

んであるかを知っており、それに従って正しく生きようとしているのに・・・・。

信仰生活が自分の中だけの価値観であって、他者のものとは違うことを基本的に認

める近代人の信仰生活の盲点が、じつにリアルに、鋭くあらわされているといえな

いでしょうか。

 アブラハムは、このアビメレクのためにとりなしの祈りをするよう命じられて、

神の慈愛と峻厳をあぼえたことでしょう。

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