199800531
1998年5月31日

「キリストの権威と主権と教会」

エフェソの信徒への手紙1章19−23


 「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力がどれほど大きなものか

悟らせてくださるように。神はこの力をキリストに働かせて、キリストを死者の中

から復活させ、・・・すべての支配、権威、勢力、主権の上におき・・・またすべ

てのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭とし

て教会にお与えになりました。」

 ここにはまだよくわたしたちの目には見えていない二つの事柄が書かれています。

神はキリストをすべての支配、権威、勢力、主権の上におかれていて、まことに王

の王、主の主であることは、わたしたちは少し知っています。洗礼を受けてキリス

トを主と告白することは、わたしたちにとって人生の重要な出発点であったことは

たしかですし、洗礼を受けることはキリストこそ主であると告白することですから。

しかし、キリストが主であることがどれほど広がりをもち、現実性をもっているも

のであるかについては、わたしたちは無知に等しいと思います。また、キリストは

教会の頭であり、わたしたちはその肢であることも知っています。しかし、教会の

頭であるキリストは天にあるものも地にあるものも、今あるものもこれからくるも

のもすべて従わなければならないお方であり、そのキリストが世界をご自分の体と

してお用いになるのではなく、教会の頭として、教会をご自分の体としておられる

ということについて、わたしたちはどれほど確かな見解を持っているでしょうか。

それ故に、わたしたちの主に「神を深く知ることができるようにし、心の目を開い

てくださるように」と自分自身についても、また兄弟姉妹のためにも祈らなければ

なりません。それにしても、わたしたちが兄弟のためにとりなして祈り求めなけれ

ばならない事柄の規模は何と大きいことでしょう。

 人は何をするにしても力の裏付けを必要とします。最近のインドとパキスタンの

核実験とミサイル開発競争の愚かしく空しい張り合いも、今の世界の人々が核のよ

うな大量破壊と殺人の兵器を自分の側に持っていなければ安心して眠れないという

現実を示しています。この世界の中で、「キリストこそ力だ。すべての主権も権威

もキリストの権威の下にすでに服従している」と見通すことができるようになるた

めに祈らなければなりません。もちろん、この力は大量破壊兵器のような恐怖を呼

び起こす力ではありません。それは他者の罪のために自らの命を捨てて神の前にと

りなしをし、罪なきものが罪人のために自らを引き渡す愛の力、そして死者の中か

ら復活して、わたしたちをもその命にあずからせてくださる義と聖と贖いの力です。

しかもこの力は教会の中ですでに満ち満ちているのです。キリストが頭として教会

に与えられているのですから。

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