6月1日
1997年6月1日

「神はわたしに笑いをお与えになった」

創世記21章1−7


 これはサラの笑いパ−トUです。「あなたの妻サラに男の子が生まれるでしょう」

という神からの知らせを、天幕の入り口で聞いていたサラが「笑った」というあの

サラの笑い、「なぜサラは笑ったのか」、「いや笑いません」、「いや確かに笑っ

た」と押し問答したあのサラの笑いは、人間の笑いの奥深い性格を教えられました

が、ここでは全く違う笑いをサラは笑っています。約束通り男の子が生まれ、「神

はわたしに笑いをお与えになった」という印象深いことばでその笑いを表現してい

ます。パ−トUの笑いは神の与えてくださる笑いの奥深さを教えるものです。さあ、

わたしたちも神が与えてくださる笑いを笑いましょう。

 神が与えてくださる笑いとはどんな笑いでしょう。新約聖書の中には、この年老

いたアブラハムとサラの間にイサクが生まれたことを重要な信仰の出来事として捉

えています。ヘブル書では「死んだも同然の人から生まれた」と激しい言葉で語っ

ています。生命の原則などここでは押しのけられて、思いもかけないことが起こっ

ているからです。パウロはアブラハムの信仰を讃えて、「希望するすべもなかった

ときに、なおも望みを抱いて信じた」といっています。しかし、ここではアブラハ

ムの信仰よりもなによりも、約束されたことを人間の不真実にも関わらず必ず成就

してくださる神の真実が貫いています。だからサラは笑ったのです。子どもの名前

をイサク(笑い)とつけるほどに。この笑いは自分がもくろんでいたことがそのと

おりに成就した満足の笑いなどではありません。最も望んでいるところに、最も痛

みを覚えているところに、望んでいるとおりのものが与えられ、深く癒されること

が起こった、神の奇跡に直面した人のまさに夢を見ている人のような笑いであった

でしょう。この笑いは、人間の絶望とあきらめと、悲しみとむなしさを突き抜ける

笑いです。人間の浅い、軽い笑いは、心からの重い喜びの笑いに変えられています。

 主イエス・キリストは「今泣いている人はさいわいだ。笑うようになるから」と

語られました。主がわたしたちのなかでつくってくださる笑いは、このサラの笑い

以下のことではありません。「神さまはわたしに笑いをつくってくださいました。

これを聞いた人はみな、わたしに向かって笑いかけるでしょう」。キリストの福音

はこのような笑いを経験した人が、人から人へと伝えることによってわたしたちの

所にも、確かに届いています。
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