出エジプト記20:8-17 ルカによる福音書22:54-71
第9戒「隣人に関して偽証してはならない」によって、主はどのような自由を私た ちに確保してくださっているのでしょう。「偽証」という言葉は、明らかに裁判にか かわる言葉です。だとすると、裁判など一生のうち一度も経験しない人も多いでしょ うから、わたしたちのほとんどは第9戒とは関係のないことになります。しかし、こ こで、イスラエル古代社会の街の門で長老たちによって裁きが行われる法廷「街頭裁 判」の場面を思い浮かべると、少し現実的になります。そこでは、訴える人、訴えら れる人、証人になる人、裁く長老たちは、生活場面のただ中にあり、街の誰もが、裁 きの当事者になる可能性があります。そして、その場で、死刑が決定されるほどの重 罪も裁かれます。列王記上21章に、イスラエルの王アハズが宮殿の隣にあったナボテ のぶどう畑を自分のものにするため、妻イゼベルのはかりごとに従って、偽りの証人 を立て、ナボテを殺してしまった話が書かれていますが、このような情景から、「偽 証してはならない」という戒めのカバーしている領域を考えると、その意義が分かり ます。街の門の裁きの場は、共同体の正義と公正が保たれる生命線ですから、ここで すべて共同体に属するものが隣人について偽りを語ることなく、真実を語るように、 こうして隣人の名誉を守るようにというのです。預言者エレミヤは、第9戒の乱れが どれほど社会を荒廃させ、滅亡を招くかについて、深く洞察した預言者です。「彼ら の舌は人を殺す矢,その舌は欺いて語る。隣人に対して平和を約束しても、いつも心 の中では陥れようとたくらんでいる」(9:7)。信頼しあって生きる社会は平和、 それがない社会には自由がありません。 主イエスは、どのような第9戒の世界を生きられたのか、と考えると、ここでもま ことにパラドクシカルです。十字架に至る道、イスカリオテのユダ、ペトロ、祭司長 たち、ピラト・・・、まさに偽証の世界です。この中で人々の罪を一身に負っていま す。しかし、わたしたちの主イエスが、道端に座っていた生まれながら目の不自由な 人について、その障害は、両親の罪でもなく、本人の罪でもないと語られた時、まさ にそこで、「偽証してはならない」という戒めの生き方の真髄が示されたのです。「偽 証」の対極は「真実と公正」ではなく、神の愛のまなざしのなかにある新しい人間の可 能性を開き示すことにあります。私たちは、この主イエス・キリストに罪を担われ、 新しく生きるものとして見出されたものです。