2月26日
2006年2月26日

「むさぼってはならない」

出エジプト記20:17-21 ローマの信徒への手紙7:7-25


 モーセの十戒の最後、『むさぼってはならない』によって確保されている自由の領

域とは何でしょうか。これを見つけるのは難問です。第10戒は、隣人の家や妻、男

女の奴隷、家畜にいたるまで欲しがってはならないというのですから、第7戒「姦淫

してはならない」や、第8戒「盗んではならない」とどのように区別するのでしょう。

「むさぼる」の原語は、外面的な行為だけでなく、その行動に至る内なる衝動全体を

カバーするといわれますから、悪しき欲望を持つことがだけが禁じられていると理解

するのは無理があります。そこで、イスラエルの共同体でこの第10戒が核になって

発達している法制に注目すると、すこし視野が開けてきます。7年ごとに負債を免除

したり、奴隷であった人を解放しなければならなかったり、ヨベルの年についての決

まり、また利子を取ることを禁じる決まりなどは、第十戒から出ているもの、といわ

れます。だとすれば、ここで守ろうとしている自由の領域は、人が人として各人に与

えられている自由の領域同士が、互いに適切な関係において守られなければならない、

ということです。食欲や性欲、所有欲など、生きて行く欲望を各人の内に持っており、

それを満たすことが自由ということです。しかし、その自由は隣人の同じ種類の自由

と競合し、一人の自由は他者の自由を侵害するという性格を持っています。第十戒は、

この領域においても、互いが自由な関係をもつことができる、と教えているのです。

これが最後の戒めであるのは理由があります。

 さて、この戒めは新約聖書においてどのように展開されているか。すぐに思い出す

のは、パウロの深刻な罪の告白です。律法学者パウロをキリスト共に十字架に釘づけ

たのは、実にこの戒めでした。「むさぼるな」との戒めによって、罪は機会を捉えて

ますます罪を犯させるようになるという、人間の心の実態を赤裸々に描いています。

主イエス・キリストがわたしたちの罪を担い、十字架につけられたのは、実に、わた

したちのこのような奴隷状態から解放するためであったのです。


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