3月5日
2006年3月5日

「契 約 す る 神」

出エジプト記24:1-18 ルカによる福音書22:14-23


 出エジプト記は、「十戒」を伝えた後、十戒をもとに展開されるさまざまな共同体

の生活を秩序づける法「契約の書」といわれる、を記しています。それに続いて、シ

ナイの山のふもとと山の上での二つの礼拝を伝えています。モーセはアロンやその後

継者、12部族から選ばれた70人の長老とともに、山に登り、そこで「神を見て、

食べ、飲んだ」という驚くべき礼拝が行われています。山のふもとでの礼拝は、民全

体が参加するもので、そこでは、モーセが律法の書を読み聞かせ、祭壇を築いてはん

さいをささげ、雄牛の血を祭壇と民全体に降り注いで、民全体に律法に従うことを誓

約させ、契約を結ぶという礼拝です。どちらの礼拝も、今わたしたちが行っている礼

拝とは全く異なる古代イスラエルの礼拝の仕方で、そこにどのような信仰と敬虔がこ

められているかは理解し難く感じられます。しかし、「ことば」と「食事」を中心に

持つ「礼拝」というかたちは、み言葉とサクラメントによって構成されるわたしたち

の礼拝と深く通じていることは見分けることができます。

 何よりもここで教えられるのは、ここにある二つの礼拝とそれ以前の十戒、契約の

書とのつながりです。十戒がそれだけで完結していないで、礼拝を必要としている、

ということです。モーセはそのように民を導いています。その意義はどこにあるか。

「礼拝」は、「交わり」がその本質にあります。神と人との交わり、そこに集う者同志の

交わりです。生きた出会いであり、その深く人格的な交流において、生きるべき本来

の場所を見出すのです。「律法」は、これまで十戒の学びを通して教えられたように、

神が設定してくださっている自由の空間であり、その中に生きるものは自ら自由にな

り、また、他者を自由にします。驚くべき知恵がそこに込められています。しかし、

律法は律法だけで完結しません。真の礼拝、神と人との生きた交わりの場を必要とし

ます。真の礼拝のないところに律法が守られる真の自由の空間はない。旧約の敬虔は

既にこのことを私たちに教えています。また、この礼拝は「契約」を結ぶ礼拝です。神

と人とが「契約」の関係に入るということは、不思議です。しかし、神は自らを人と契

約する関係の中に入られ、血をもってその結びつきを確かにされます。「礼拝」、

「律法」「契約」、この三つのつながりは、まさに新約に通じる旧約の宗教を理解す

る核心です。



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