4月2日
2006年4月2日

「燃える怒りをあらわす神」

出エジプト記32:7-16 エフェソの信徒への手紙2:4-10


 40日40夜、シナイ山の上でモーセが神との交わりを持ち、律法の板を授けられ、

礼拝の仕方について指示を受けているさなかに、山のふもとでは「金の子牛」を前に

人々の欲望と不安が造り出した神への礼拝が行われています。堕落した礼拝の現実に、

神は激しい怒りに燃え立って、モーセに、「直ちに下山せよ」と命じられます。このよ

うな罪が行われる時、神は静かに沈黙してはおられないのです。しかし、それは本当

にそうなのでしょうか。むしろ、人間の罪をなすがままに放置し、その行き着くとこ

ろまで、そのままにしておくのが、神のやり方なのではないでしょうか。現在の世界

に渦巻いている悪と罪の現実、罪が勝手に働いて、その結末をもたらすのを神は待っ

ておられるように思える現実に生きているわたしたちにとって、この神の怒りは新鮮

です。神は熱く燃えています。神の嘆き、神の痛み、放置しておけない熱情、それは

まさに愛に根ざしています。主の十字架を知るときに感じる神の愛の熱さです。神は、

この民をほろぼしつくし、モーセを立てて新しい民を造る、とまで言われます。しか

し、神のことばには矛盾があります。そのモーセに「直ちに下山せよ」と命じられるの

ですから。

 神の怒り、人間の罪に熱く燃える心に直面したモーセがしていることは、とりなし

です。神の怒りに同調するのではないのです。神の愛の熱さを知るものが取るべき位

置がここに示されています。モーセが神に対して語る言葉。「思い直せ」、「怒りを

止めよ」、「思い起こせ」・・・まるで間違っているのは民ではなく、神のほうだと

言わんばかりです。創造者がその創造の秩序を回復するために行動をおこされる。そ

の行く手を一介の人間が阻もうとする。「とりなし」の祈りには、そのような危険と

罪を内蔵しています。しかし、驚くべきことに、神はモーセのとりなしを受け入れ、

下そうといわれた災いを「思い直された」のです。神は、そのようなとりなしを待って

おられるのです。


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