出エジプト記32:7-16 エフェソの信徒への手紙2:4-10
40日40夜、シナイ山の上でモーセが神との交わりを持ち、律法の板を授けられ、 礼拝の仕方について指示を受けているさなかに、山のふもとでは「金の子牛」を前に 人々の欲望と不安が造り出した神への礼拝が行われています。堕落した礼拝の現実に、 神は激しい怒りに燃え立って、モーセに、「直ちに下山せよ」と命じられます。このよ うな罪が行われる時、神は静かに沈黙してはおられないのです。しかし、それは本当 にそうなのでしょうか。むしろ、人間の罪をなすがままに放置し、その行き着くとこ ろまで、そのままにしておくのが、神のやり方なのではないでしょうか。現在の世界 に渦巻いている悪と罪の現実、罪が勝手に働いて、その結末をもたらすのを神は待っ ておられるように思える現実に生きているわたしたちにとって、この神の怒りは新鮮 です。神は熱く燃えています。神の嘆き、神の痛み、放置しておけない熱情、それは まさに愛に根ざしています。主の十字架を知るときに感じる神の愛の熱さです。神は、 この民をほろぼしつくし、モーセを立てて新しい民を造る、とまで言われます。しか し、神のことばには矛盾があります。そのモーセに「直ちに下山せよ」と命じられるの ですから。 神の怒り、人間の罪に熱く燃える心に直面したモーセがしていることは、とりなし です。神の怒りに同調するのではないのです。神の愛の熱さを知るものが取るべき位 置がここに示されています。モーセが神に対して語る言葉。「思い直せ」、「怒りを 止めよ」、「思い起こせ」・・・まるで間違っているのは民ではなく、神のほうだと 言わんばかりです。創造者がその創造の秩序を回復するために行動をおこされる。そ の行く手を一介の人間が阻もうとする。「とりなし」の祈りには、そのような危険と 罪を内蔵しています。しかし、驚くべきことに、神はモーセのとりなしを受け入れ、 下そうといわれた災いを「思い直された」のです。神は、そのようなとりなしを待って おられるのです。