出エジプト記32:15-29 ガラテヤの信徒への手紙3:19-25
シナイ山のふもとで金の子牛を造って拝んだイスラエルの民にもたらされた結果、 その光景はまさに混沌と闇です。契約の板を粉々に打ち砕き、金の子牛をすりつぶし て水と共に民に飲ませるモーセ、無責任な言い逃れをするアロン、レビ人による同胞 大虐殺、「その日、民のうちで倒れた者はおよそ3000人であった。」この大虐殺 に加わった人々を、モーセは「主の祭司職に任命された」と、祝福するのです。なんと 言う祝福、なんと言う転倒。「父と母を敬え、殺してはならない」との律法を与えた モーセ自身が、同胞大量虐殺に手を下し、祝福しています。これらのことばをわたし たちはどのように受けとったらいいのか。これは神のさばきなのか、それとも、神の 名をかたるモーセの過度の怒りなのか。ここに提出されて問題は、テロにおびえるわ たしたちの世界にとって、決して古い問題ではありません。 何ゆえにこのような堕落が、と問うモーセに対するアロンの答え、「この民が悪い ことはあなたもご存知です・・・わたしが火に投げ入れると、この若い雄牛ができた のです。」この答えの中に、アロンはどこにもいません。罪を犯した人間は、まさに その当事者でありながら、自分がどこにいるのか見えません。主体性を失って、すべ ての問題の根源は、どこか別のところにあると考え、かぎりなく無責任になります。 アダムとイブの失楽園の物語の再現です。 その後に続く3000人の同胞の大虐殺、モーセの燃える怒りの大爆発。すでに、 神の怒りはモーセのとりなしによって思い直され、滅ぼすことをしないと誓っておら れるのに、なぜ、ここでこのような残虐が行われなければならないのか。旧約聖書に は、このモーセの「聖なる情熱」が必ずしもモーセの人間的な怒りの爆発と片付ける ことができない、神のさばきの現われとしていることに出会い、とまどわせます。命 の創造者、保持者である神が、命の破壊者、混沌と闇をもたらす者となっているので す。アロンの言い訳にしても、モーセの怒りの爆発にしても、ここには「福音」があ りません。「救い」もありません。新約聖書を読むものは、このモーセの怒りの情熱を、 ダマスコ途上のパウロの情熱と重ねあわすことができると思います。あの時、パウロ に天からの光を照らして語られた主は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスで ある」と語られたのでした。聖なる情熱によって殺された側の人の中に、主キリスト は立っておられるのです。