出エジプト記32:30-33:6 ローマの信徒への手紙9:1-12
金の子牛の像を造って拝んだイスラエルの民に対する処置は、簡単ではありません。 堕落し罪を犯した民をさばく神、そして、その間に立つモーセ、それぞれの思いと行 動に紆余曲折があります。「聖なる情熱」にかられ、3000人の同胞虐殺という結 果をもたらしたモーセは、ここでは再び神の山に登って民の罪のためにとりなしの働 きをしています。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今もしも あなたがかれらの罪をお赦しになるのであれば・・・もしそれがかなわなければ、ど うかこのわたしをあなたの書き記された書の中から消し去ってください」。このモー セの祈りの中には、「とりなし」の究極の姿があります。モーセは民の犯したことがど れほど大きな罪であるかを知っています。その罪は、誰の中にもある愛すべき性向な どと軽く見過ごしにされるものではないこと、それゆえに、罪のゆるしを乞い、「罪 の贖い」をしようとして、「命の書」から名前を消し去ってくださいと願っています。 神の民の共同体から排除されること、したがって永遠の命の継承を放棄してもよいと いうことですから、死をもって償うことよりももっと重いことです。 自分の命、いや受け継ぐべき永遠の命をさえも代償にして民の罪のために執り成す こと、このモーセの「罪の贖い」の申し出を、驚くべきことに、神は斥けられます。 各々自らの罪の責任を担わなければならない、というのです。ここでは神の御子主イ エスキリストの十字架の死と復活による「罪の贖い」を待たねばならないのです。 神が民の堕落と罪の直面することによって決意された内容を、わたしたちはどのよ うに理解すべきでしょうか。「さあ、あなたがたがエジプトの国から導き上った民を、 乳と蜜の流れる地に導き上れ」。このような呼びかけは、奴隷の地エジプトにいた時 に聞いた約束のことばと同じです。土地を与え、先住民を追い出し、先立ってゆく使 者を与える、と。しかし、神ご自身は、「わたしはあなたがたの間にあって上ること はしない。途中であなたがたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたがたは かたくなな民である」といわれるのです。神の真実の一貫性は、動揺しています。 「わたしは必ずあなたと共にいる」との約束は揺らいでいます。もちろんこれは、最 終結論ではありません。しかし、このような人間の罪と堕落の生きた現実に、神は生 きた姿において対応しているさまを垣間見ることは驚くべきことです。