5月7日
2006年5月7日

「わたしがみずから同行する」

出エジプト記33:7-17 ルカによる福音者24:13-35


 金の子牛の像を造り、神の前に罪を犯したイスラエル、これによって、「わたしは

必ずあなたと共にいる」という神との関係は裂けてしまって簡単には回復できません。

「わたしはあなたがたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしま

うことがないためである」と言われるのです。このような事態の中で、神の人モーセ

がしたこと、それは執拗な祈りでした。主イエスは、祈る時、執拗に、あきらめるこ

となく祈るように教えましたが、ここでのモーセの祈りは、まさに執拗な祈りの典型

です。

 まず、モーセは民の宿営から遠く離れたところに「臨在の幕屋」(神との交わりを

するところ)を設け、そこで、「神と顔と顔を合わせて語る」という驚くべき場を持

ちます。そこにはモーセと従者のヨシアのほか誰一人近づくことはできません。その

場所とその祈りに民全体は注視し、民はは各々自分の天幕の入り口に起立しています。

その時モーセは、神の側に立って神のさばきを求めるのか、民の側に立って罪の赦し

を願うのか、とりなしの祈りは人を危険な立場に置きます。

 モーセの祈りは、「道を示してください」、「好意を示してください」、「どうか

この民があなたの民であることも、目にお留めください」と、イスラエルの罪を棚上

げにして、ひたすら勝手なお願いをしているように見えます。しかし、「罪の贖い」を

したいという申し出さえ斥けられている状況では、ひたすら神の憐れみにすがるしか

ない、神の主権にゆだねてそこに救いを見出そうとしているのです。そしてついに、

「わたしはあなたに同行し、あなたに安息を与えよう」という慰め深いことばを神か

ら引き出しました。「わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼ら

を滅ぼしつくす」と語られる神から、憐れみ深いことばをひきだしたのです。しかし、

モーセはこの言葉に終わりを見出していません。未だ欠けているものがあるのを見出

しているのです。何が欠けているか。「あなた」と同行し、「あなた」に安息を与え

ると神はいわれます。そこには「わたしたち」、「わたしとわたしの民」と共に同行

し、安堵を与える約束ではないのです。モーセは食い下がります。ヤボクの渡しで天

使と夜どおし格闘して「わたしを祝福してくださるまでは離しません」と食い下がっ

たヤコブのようです。しかしあの時は「わたし」の祝福を求めていますが、ここでは

「わたしとわたしの民」のために好意を示されることを求めてくいさがっているので

す。


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