出エジプト記33:7-17 ルカによる福音者24:13-35
金の子牛の像を造り、神の前に罪を犯したイスラエル、これによって、「わたしは 必ずあなたと共にいる」という神との関係は裂けてしまって簡単には回復できません。 「わたしはあなたがたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしま うことがないためである」と言われるのです。このような事態の中で、神の人モーセ がしたこと、それは執拗な祈りでした。主イエスは、祈る時、執拗に、あきらめるこ となく祈るように教えましたが、ここでのモーセの祈りは、まさに執拗な祈りの典型 です。 まず、モーセは民の宿営から遠く離れたところに「臨在の幕屋」(神との交わりを するところ)を設け、そこで、「神と顔と顔を合わせて語る」という驚くべき場を持 ちます。そこにはモーセと従者のヨシアのほか誰一人近づくことはできません。その 場所とその祈りに民全体は注視し、民はは各々自分の天幕の入り口に起立しています。 その時モーセは、神の側に立って神のさばきを求めるのか、民の側に立って罪の赦し を願うのか、とりなしの祈りは人を危険な立場に置きます。 モーセの祈りは、「道を示してください」、「好意を示してください」、「どうか この民があなたの民であることも、目にお留めください」と、イスラエルの罪を棚上 げにして、ひたすら勝手なお願いをしているように見えます。しかし、「罪の贖い」を したいという申し出さえ斥けられている状況では、ひたすら神の憐れみにすがるしか ない、神の主権にゆだねてそこに救いを見出そうとしているのです。そしてついに、 「わたしはあなたに同行し、あなたに安息を与えよう」という慰め深いことばを神か ら引き出しました。「わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼ら を滅ぼしつくす」と語られる神から、憐れみ深いことばをひきだしたのです。しかし、 モーセはこの言葉に終わりを見出していません。未だ欠けているものがあるのを見出 しているのです。何が欠けているか。「あなた」と同行し、「あなた」に安息を与え ると神はいわれます。そこには「わたしたち」、「わたしとわたしの民」と共に同行 し、安堵を与える約束ではないのです。モーセは食い下がります。ヤボクの渡しで天 使と夜どおし格闘して「わたしを祝福してくださるまでは離しません」と食い下がっ たヤコブのようです。しかしあの時は「わたし」の祝福を求めていますが、ここでは 「わたしとわたしの民」のために好意を示されることを求めてくいさがっているので す。