出エジプト記33:18-34:3 ローマの信徒への手紙9:14-18
金の子牛の像を造って重い罪を犯した民のために、モーセは神にとりすがるように とりなしの祈りをします。そしてついに、わたしはあなたと同行しあなたに安息を与 えよう」との約束を聞き取ります。しかし、モーセの祈りはこれで終わりません。 「どうかあなたの栄光をお示しください」と不思議な願いを表明しています。このよ うな願いは、何かよものを与えてください、とか、悩みから救ってくださいといった 種類の願いとは異なる、きわめて霊的な求めであることは確かです。聖書に出てくる 「栄光」は、輝きをイメージするより、重さをイメージすべきことは前にも学びまし た。従って、「栄光を示してください」という願いは、もっと近くで、もっと深く、 もっと確かに、神の本質と質量のすべてを実感したいという願いにほかなりません。 それは、わたしたちにとっても、切実な願いでもあるでしょう。罪の世のただ中で、 罪と混沌の海を漂うように生きているわたしたちの存在をつなぎとめる確かなもの、 それこそが、神の栄光です。カルヴァンはこのモーセの願いを、「節度と慎みの限度 を超えた願い」と断じていますが、人間の切なる願いであることも確かです。 モーセの求めに対する神の応えは、深く味わうべき言葉です。「わたしはあなたの 前にすべてのわたしのよい賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わた しは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ。・・・あなたはわたし の顔を見ることはできない。人はわたしを見て生きていることはできない。」モーセ の求めに対して神は、否定の中にある肯定と肯定の中にある否定を含んだ否定と肯定 とをもって答えています。わたしたちは神の栄光そのものを見ることはできません。 ただ主の名と、よき賜物において栄光の存在を垣間見るだけです。モーセは神と「友 と語るように語り合った」と記されるほど近い関係で、神に呼び出され、神の働きを 担った人です。しかしなお、神の栄光の本質を見ることは許されません。しかし、興 味深いことに、神はモーセを岩の間に隠し、栄光が通り過ぎる時、その後姿を、敢え て、見せるのです。人は神の栄光を、不動の姿においてではなく、その通り過ぎる姿 で、しかも前面においてではなく、後姿において見る、というのです。神の本質に人 はどのようにふれるのかについて考える時、味わい深いことばです。それと共に、主 イエスにあって神の栄光を見るものは、全く新しい神の栄光の表れにふれることも思 い起こされます。