5月28日
2006年5月28日

「民は皆、主の業を見る」

出エジプト記34:4-17 ルカによる福音書19:37-48


 罪を犯したイスラエル、シナイ山のふもとで金の子牛を造って礼拝した民のための

とりなしの祈りは、再び二枚の石をもって山に登り、契約の更新をすることをもって

終わります。このことを促してくださるのは、主ご自身です。すでに学んだように、

十戒のことば一つ一つは、それが生と死、祝福と呪い、自由と不自由を決定的に分か

つ境界領域を明確に示しています。その戒めを踏み破ることによって神の怒りを招く

だけでなく、混沌と闇への道へと必然的に堕ちてゆくことを意味します。主に背き、

堕ちることを選んだものであるにもかかわらず、戒めが約束している生と祝福と自由

の中に再び立ち帰って生きるようにと招き、促してくださるのは主ご自身です。ここ

に主の熱情があります。旧約の神は裁きと怒りの神しか見出せないと考えるのは、見

当違いです。

 山に登ってきたモーセに主は語りかけます。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、

忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを保ち、罪と背きと過ちを

赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を子、孫に三代、四代にま

で問う者」ここで語られた神の名の宣言は、定型句です(さまざまなヴァリエーショ

ンがありますが)。神の名を宣言することが、罪を犯したイスラエルに対する赦しと

関係回復となっています。罪の悔い改めの言葉と再び罪を犯さないとの決意が、赦し

の宣言と和解の宣言になっているのではないのです。そして、そこで宣言される主の

名と、その名の中に含まれている内実すべてが、赦しと自由と祝福を与えることを約

束しています。主の名の本質は「慈しみとまこと(ヘセドとアメン)」、わたしたち

の祈りの最後に「アーメン」と唱えるそのことばがここにあります。主の名そのもの

が赦しと救い、主の名がかたられるところに祝福と救いがある、この独特の主張、信

仰、ここに聖書の信仰がかかっています。「あなたの悩みの日に、主の名を呼べ」と

語られるのも、この信仰に根ざしています。


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