出エジプト記34:4-17 ルカによる福音書19:37-48
罪を犯したイスラエル、シナイ山のふもとで金の子牛を造って礼拝した民のための とりなしの祈りは、再び二枚の石をもって山に登り、契約の更新をすることをもって 終わります。このことを促してくださるのは、主ご自身です。すでに学んだように、 十戒のことば一つ一つは、それが生と死、祝福と呪い、自由と不自由を決定的に分か つ境界領域を明確に示しています。その戒めを踏み破ることによって神の怒りを招く だけでなく、混沌と闇への道へと必然的に堕ちてゆくことを意味します。主に背き、 堕ちることを選んだものであるにもかかわらず、戒めが約束している生と祝福と自由 の中に再び立ち帰って生きるようにと招き、促してくださるのは主ご自身です。ここ に主の熱情があります。旧約の神は裁きと怒りの神しか見出せないと考えるのは、見 当違いです。 山に登ってきたモーセに主は語りかけます。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、 忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを保ち、罪と背きと過ちを 赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を子、孫に三代、四代にま で問う者」ここで語られた神の名の宣言は、定型句です(さまざまなヴァリエーショ ンがありますが)。神の名を宣言することが、罪を犯したイスラエルに対する赦しと 関係回復となっています。罪の悔い改めの言葉と再び罪を犯さないとの決意が、赦し の宣言と和解の宣言になっているのではないのです。そして、そこで宣言される主の 名と、その名の中に含まれている内実すべてが、赦しと自由と祝福を与えることを約 束しています。主の名の本質は「慈しみとまこと(ヘセドとアメン)」、わたしたち の祈りの最後に「アーメン」と唱えるそのことばがここにあります。主の名そのもの が赦しと救い、主の名がかたられるところに祝福と救いがある、この独特の主張、信 仰、ここに聖書の信仰がかかっています。「あなたの悩みの日に、主の名を呼べ」と 語られるのも、この信仰に根ざしています。