6月4日
2006年6月4日

「その名を情熱という主」

出エジプト記34:10-17 使徒言行録2:1-13


 ペンテコステの日、世界中の教会で聖霊について語られ、聖霊の生きた働きが、今

ここにもあたえられるようにとの祈りがささげられます。あの日、聖霊は天からの激

しい風、炎となって燃える舌のようなかたちで、主イエスの弟子たちに注がれたので

した。人々は聖霊を受けて、燃える心をもって口々に他国のことばで神のおおいなる

み名をたたえたのです。聖霊には、働く時があります。その働きを見せる時がありま

す。その時に立ち合わせてくださるようにわたしたちは祈り求めなければなりません。

しかし、聖霊は、その時だけ働いているのではありません。ペンテコステの時からは

じめて働き始めたのでもありません。天地創造のはじめから聖霊は創造の業を起こし、

イスラエルを選び、エジプトの奴隷の家から導き出す働きを続けています。ペンテコス

テの日、聖霊は主イエスの十字架の死と復活の出来事を見た弟子たちを、罪と弱さか

ら回復し、立ち上がらせる力を与えて、全世界に遣わしたのでした。この聖霊の働き

の姿を、出エジプトの物語の中にも見出すことができます。

 金の子牛を作って拝んだイスラエルに対して、その罪を赦して再び契約をむすぶこ

とについて、このように主は語られます。「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあ

なたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは、全地のいかなる民にも未だかつて

なされたことのない業である。あなたと共にいる民はみな、主の業を見るであろう。

わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきことである。」ここで、「驚くべき

業」、「恐るべきこと」と言っているのは、罪を犯して滅ぶべきはずのイスラエルの

民が、赦され再び主との契約の中で生きる者とされることです。原文では、これは、

天地創造と同等の創造的な行為であるとの息遣いを感じさせます。その主なる神の行

為を語るとき、十戒の中で語られた「熱情の神」ということばがここでも出てきます。

「妬む」とも訳される激しい感情、燃える心、焼き焦がれる思い、他の関係の介入を

許さない心、その思いをもって、再び契約の中に生きるものとしてくださるのです。

「熱情の神」は、不可思議、とか、隠された恐るべきもの、とか、全能と言った神の

形容詞とは全く異質の激しく熱のこもったことばです。それは人格的な深い関係の中

だけで使われることばです。ペンテコステのとき、燃える心を与えられたのは、この

ような熱情の神、主イエス・キリストの心が与えられたからです。


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