民数記9:15-10:12; フィリピの信徒への手紙3:12-16
出エジプト記を連続して学びながら、イスラエルの民がエジプトを出てシナイ山に いたり、そこで神からの契約の板をいただいたところまでを、共に旅してきました。 ここから民数記のほうに飛躍します。その間にある祭儀的な決まりや12部族の数など の記述はとばして、シナイ山のふもとを出発して再び旅を開始し、ついに約束の地カ ナンはいるまでの荒れ野の旅の後半部分を学びます。民数記9章のはじめに「エジプ トの国から出た翌年の第一の月」と記されているように、ちょうど一年目に、過越祭 を祝って、エジプトから導き出された劇的な夜を思い起こし、主の解放のみ業と導き を感謝して、いよいよ新たなる旅を始めるのです。その最初にした二つのことが記さ れています。一つは、雲が幕屋から立ち上って動き始めるとイスラエルはこぞって旅 をはじめ、雲がとどまると、そこに滞在する、このことを、「イスラエルは主の命令 によって宿営し、主の命令によって旅立った」と繰り返し語っています。他は、二本 の銀のラッパを打ち出してそれによって民全体の集合離散の合図としたことです。こ れからの旅の行動の基本となることがこのように規定されているのです。イスラエル の出エジプトの旅は、この世におけるキリスト者の旅、教会形成の旅と重ね合わせる ことができます。わたしたちもまたどのように旅を続けるかを考える時、ここに記さ れている二つのことに大きな示唆を与えられます。 「幕屋を覆う雲」は、これまでも荒れ野を旅する時、雲の柱・火の柱として行く道 を示されてきましたし、またシナイ山では雲の中から主は語られたのでした。神の臨 在を示すしるしです。従って、雲が上がると旅立ち、雲がとどまると宿営すると言う ことは、主の導きのままに旅をする、ということです。雲の動きに注意しましょう。 雲は決まった期間とどまり、決まった時に動き出すというのではありません。誰かの 意志で動くものでもなく、人間の側の事情や都合で動くものでもありません。長い日 数とどまるときもあれば一夜だけであわただしく旅立たなければならないときもあり ます。出るときととどまる時、主の時を聞いて従順に従うことによって、主の民の歩 みとなるのです。銀のラッパが鳴り響く時にも注意しなければなりません。一本だけ の響き、二本の響きそれぞれに意味があります。その響きに心を傾けていないと、ば らばらの迷える民として荒野に消え去ることになります。